月: 2007年9月

新小岩の家

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結設計のホームページを更新しました。

設計事例に「新小岩の家」を追加しました。

閑静な住宅街に建つ4人家族のための住宅です。お子様がまだ小さいということもあり、今後の生活の移ろいを視野に入れ、玄関から2階にかけてをほぼ1室状態とすることで包容力のあるおおらかな空間作りを目指しました。立面は大きな開口と閉じた壁、そして屋根中心のトップライトによりバランスを考えました。大開口は、昼間は玄関ホールと2階全体に対する採光と視線の抜けを確保し、夜間は建物前面の駐車場及びアプローチを照らす街灯代わりになることで、帰宅者が安心感を得られるよう意図しました。

是非ご覧下さい。


石岡のお祭り

9月半ばに故郷の茨城県石岡でお祭りがありました。聖武天皇の時代、常陸国の国府がおかれた石岡に古から続く常陸国総社宮の例祭です。幼い頃は出店にばかり目が奪われましたが昨年15年ぶりに見た山車や獅子舞に遠い記憶が蘇り、郷愁を覚えた今年は祭りの「儀式」を見学することにしました。祭りは3日間行われ初日に神様を乗せた御神輿一行が総社宮から出て町の御仮屋に3日間留まります。この間、総社宮に近い15の町会を中心に山車や獅子車が町を錬り歩き祭を祝います。今年は3日目の御神輿一行が社へ戻る還幸祭を見学しました。

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晴天の中、御仮屋前の通りに一列に並んだ山車の前を御神輿の供奉行列が進む情景は壮観でした。行列が町を巡幸している間に総社宮へ移動。緑深い境内は静かに一行の帰りを待っているようでした。やがて、露払い役のささらの太鼓囃子と「そいや、そいや」という掛け声と共に御神輿の一行が境内に入ってきました。御神輿が所定の位置に置かれ、担ぎ手の人達を中心に三本締め。長い距離を練り歩き白装束はびしょ濡れになり、肩に薄っすらと血の滲む人も。それでも表情は清々しく、責任ある任務をやり遂げた達成感が伺えました。何トンもある山車を動かし御輿を担ぐ、まさに力と力を合わせて「協力」する、これが祭りの醍醐味。今回、幾度かそんな場面を間近に見て改めて伝統行事の別の意味での大切さを実感することになりました。その後も御神輿から本殿へご神体を遷され儀式は粛々と執り行われたのでした。石岡のお祭りは毎年9月半ばの三連休に行われます。(中嶋)

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瞑想の森

岐阜に行く機会があって、各務原市にある建築の“瞑想の森 市営斎場”を見ようとレンタカーを借りたときです。レンタカー屋さんの話では多分その住所では車で10分か20分くらいだろうとの事でした。備え付けのカーナビに瞑想の森とその他いくつか目的地を入れて出発しました。7,8分で高速道路に入りかかりあえて下を走っていましたがどうもナビに曲がれの指示がなくそうか十数分というのは高速道路にのるからかと思い高速道路に乗り換えました。

乗ってどうも気になり、これでいいのか今どこに向かっているのか見ようとしてもその画面が出てこず、またカーナビ付属のラジオがうるさく消そうとしてもどうしても消えません。同乗者が変なボタンを押したのか画面がぱっと変わり慌てて元に戻したりしていましたが、なかなか高速道路の降りるところもなく指示もでません。4,50分走ったらようやく高速道路を降りろとの指示が出て、降りてこの道をとにかく走れとのこと。走ること1持間、どんどん山の中に入っていく。おかしいなこんなところに斎場があるはずないだろう、もしかしたらやはり別の目的地に向かっているのではとあせっていたら、道路の案内板に瞑想の森という文字が見えました。そうかやはり良かったかとそのまま走り山の上の方に向かっていきました。実は心の中にはかなり前からある確信的不安がどんどん肥大化して来ていました。とうとう山頂近い平らなところの行き止まりまできました。あたりに小さい休憩所があるだけで斎場らしき建物は全く見当たりません。正面に確かに瞑想の森という看板がありました。

そこは確かに岐阜県恵那市の山頂散策路、瞑想の森というところでした。

やはりカーナビに魂を売るものではありません。

正に迷走の森を走らされるのがおちです。(藤原)

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インカ・マヤ・アステカ文明展

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先日上野にインカ・マヤ・アステカ文明展を見に行きました。やはり思ったとおり、メソアメリカ文明のブーム到来の様子です。たまたま早起きして出掛けたので入場の列に並ぶ事は避けられたのですが、博物館を出てみてびっくり!入場待ちの列ははるか公園の彼方まで延び、あぁ早起きはするべきだなぁと思わされました。展示の内容についてですが・・・マニアックになりそうなので詳細については省きますが、古の手や生活を直に感じられる展示遺物にはやはり只ならぬ雰囲気があり、なんともじーんと感じさせられました。しかし、外では並ばずに済んだものの中は大渋滞。展示品にはなかなか近寄れず牛歩戦術で見て廻っていましたが途中で疲れ果て、ちょっと見足りない分は図録を購入して満足する事にしました。次は実際に世界遺産を見て廻りたいなぁと毎回思うのですが、遥か古の古代遺跡を見に行けるのは遥か彼方、遠い未来の事になりそうです。

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聞いてる?(石井)


夕日を待つ

日の出を待つというのは元日の初日の出や登山などで聞くことはありますが、夕日を待つということは意外に少なく、気付いたら空が紅くなっていたという場合が多いように思います。夏に行った旅行では、日の高いうちからきれいな夕日が見られそうだと予感して、夕日を見たいがために港にへばりついていたことがありました。陽が落ちるまでのあいだ、忙しい日常では感じられない時間の流れを感じました。(大庭)

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MからSへ

今まで自分はMと思っていましたが、最近ではもしかするとSかもしれません。念のために言っておきますが、これは服のサイズの話です。先日、洋服屋でズボンの試着をする際いつものようにMかLサイズ位だと思っていましたが、試着してみると丁度良いサイズがなんとSサイズでした。(一応ズボンの長さはSでもMでも変わりません。)今までSサイズの服を買った経験がなく、このズボンも日本のブランドの物で特に大きめに作ってあるとは思えません。私のウエストが急に細くなった訳でも、まだ体の縮む歳でもありません。もしかすると、日本人の体が全体的に大きくなり、S・M・Lも以前とは違う寸法になってきているのではないでしょうか?コンビニに行くと弁当に大盛と書いてあるものやカップラーメンにBigと書いてあるものが増え、一般的に食べる量も増えてきているようです。食生活が欧米化し、日本人の体の大きさも全体的に大きくなってきているのを特に感じさせた出来事でした。(萩原)


少し前の本ですが、タイトルにつられ「やさしさの精神病理(大平健氏著)」を読みました。「やさしい」というのは非常に曖昧な表現であり、「××にやさしい※※」と言ったとき、「やさしい」が何を意味するのかは「××」「※※」によって変わってきます。例えば「胃にやさしい食べ物」といえば負担をかけないという意味でしょうし、「女生徒にやさしい先生」といえば恐らくは甘いという意味になるのでしょう。ちなみに手元の辞書の「やさしい」の項には前二例のような意味は書かれておりません。本書では「やさしさ」を各々の思いを込めて相手に求めた時、自分の求める「やさしさ」が帰ってこないためにコミュニケーションに齟齬が生じ、ひどい場合は精神を病んでしまうこともあるというような症例が書かれています。100人いれば100通りの「やさしさ」があるのであれば相手に自分の思いを汲んで貰うという期待もしないのでしょうが、例えば同世代ではほぼ同じ意味で捉えることが出来たりなど中途半端に意思疎通できる言葉ゆえ余計にやっかいなのかもしれません。

私どもの仕事はクライアントとの正確なコミュニケーションが重要なので、こういった曖昧な言葉が使われた時にはその意を汲み取るよう努力をしなければなりません。さすがに、ただ「やさしい家を設計してください」という頼まれ方は無いでしょうが、一例としては今回藤原が「気ままに」(結設計のホームページ内)に書いた「和風」という言葉などは一定の危険を秘めていると思います。仕事に限らず、普段でも言葉が通じてないと感じることがあることから反省の気持ちも手伝って手に取った本でしたが、相手の意を汲み取る手段として参考になる例がありました。コミュニケーションで悩んでいる方などは一読の価値はあるかもしれません。(柳本)


そろそろ秋?

ここ数日かなり暑い日が続きました。次の日曜日は秋分の日ですから、そろそろ涼しくなって欲しいですね。

そんな期待を植物もするのでしょうか、自転車通勤の途中のいちょう並木では銀杏が落ちはじめていました。銀杏を踏まないように自転車を進ませている自分がなんとなく可笑しく、何故とはなく季節が変わっていくのを感じました。(加藤)


台風9号

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↑増水した二子玉川(南)       ↑いつもの河原(北)      

先週の台風9号は例年にない大型でした。工事中の「桜新町の家」と「つくし野の家」が共に地下の鉄筋コンクリート工事の最中で台風の被害が心配されましたが、現場は万全の対策をとった為、全く問題ありませんでした。台風が過ぎた翌日の朝、つくし野の現場に向かう途中の二子玉川駅で、驚きました。いつもの河原が消え、濁流が岸いっぱいに広がっていたのです。岸に打ち上がったゴミの位置で本当にギリギリのところまで増水していたのだと驚愕しました。岸辺の道路では恐らく徹夜で見守り続けたと思われる自衛隊(?)の方達の姿も見受けられ、柵にもたれた姿からは安堵感を伺えました。

一方、今回の台風で被害の大きかった群馬県の鏑川(利根川支流)近くに9年ほど前に担当した住宅が建っています。深夜の時点で危険水位を超え、避難勧告が発令されたものの何とか決壊することはありませんでしたが、下流の合流ポイントから逆流してきた水で浸水の被害を受けました。もともと万が一浸水しても住居に被害が及ばないようにと2階を住居、1階をRC造にして車庫と納戸としていたので、藤原曰く「想定内」。相変わらず明るい奥さんの声に懐かしさもあってなんだかほっと一安心してしまいました。検索サイトのGoogleで衛星写真を眺めると竣工時に庭先に植えた楠木が大きくなった姿が見られます。時の流れを辿りながら、近々訪問する予定です。(中嶋)

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住みこなし力

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二年ぶりに訪ねた仙谷望楼は凛としたままでした。今日、工務店さんの点検に同行して久しぶりに訪れてきました。二年も経つとどの住まいも住人の味が色濃くなり始めます。その人なりの住まい方を見せていただくのは何となく楽しいものです。

今回感心したのはご主人の住まい周囲の制御力でした。まず目に付いたのは北側ヤードの斜面に設けた丸太の階段です。プロの造園やさん以上です。狂いやすい木製建具の鎌錠の受け金具も自分で調整し、外部建具と破風の汚れを紙やすりで落として塗装までされていました。

庭の隅では落ち葉を大量に集めて腐葉土づくりをしていたり、また崖に生えている大きな木には手製の巣箱が設けられ、デッキには鳥寄せの水場台があり、その下には20匹以上卵から孵化させたというカブトムシの虫かごもありました。生活を楽しんでいるのがよくわかりました。うれしく頼もしい建て主さんです。

このような能力はなんと言うのかなと帰り道考えたのですがやはり“住みこなし力”というのがぴったり来る気がします。なにかあっても自分で工夫しつつ上手に処理ししかもそれを楽しみながらする。なかなかできるものではありません。

もっとも浸透枡まで作ろうと無理してぎっくり腰になられたとか、程ほどに体と相談しいしいやっていただきたいものです。(藤原)

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