優柔不断の言い訳?

この一週間は黄金週間でもあり、見ている人は時間もあるでしょうから、最近読み聞きしたことから成る程と思えたことを拾い集めて話をしたいと思います。独創的であることは保障しますが、写真は殆どなく文章も長く、見易くも楽しくもないブログになりそうなのでつまらないと思えた方は適当にパスしていていただけますか?

カタログを色々取り寄せて、検討ばかりして結局決められず、自己嫌悪に陥った経験ありませんか?またメニューや旅先など、物事を即断できず、周りの人から非難の眼差しをされたことありませんか?自分は自慢じゃないけど、通常生活でいつもその場での判断や意見を求められても即答ができず、無理やり答えてもろくな結果にならなかった経験は少なくありません。私はどうも大事に思えば思う程優柔不断になるようで劣等感を抱いていました。こんな私のような者にとって朗報です。

どうやら人の考え方に、その時々の状況を論理的に判断して決めていくやりかたと、その時々の判断を留保して自分の理想に照らし合わせて、最後に一つ一つを調整や修正を加えながら決めて行くやり方とがあるようです。前者を論理的思考(ロジカル・シンキング)、後者を統合的思考(インテグレーティブ・シンキング)と言うそうです。ロジャー・マーティングという人の『インテグレーティブ・シンキング』(日本経済新聞出版社)と言う本から教わりました。

自分勝手な解釈ですが、優柔不断はどうやら統合的思考から来ているせいではないかと思いました。そう思ったらとっても気が楽になりました。理想や目指すもの、あるいは気になるものがあり、それらを納得させるものが選択肢として提示されていない時、何とか理想を実現できないかと考えるタイプのひとは優柔不断に陥るのだと気づいたのです。

住宅の設計はまさに統合的思考そのものです。家づくりを考える方には誰にも望む住まい像があります。またそれとは別に家族や予算及び敷地の条件が存在します。希望と予算からすると可能と思えても、敷地条件に無理があったり、逆に敷地や家族にとって都合よいあり方を見出せても、予算や法規的に無理が合ったりします。その辺の無理さ加減が殆ど絶対的に無理ということではなく、他に与える歪でどうかなと訝しかったりとか、優先順位が違うように思えたり、決めきれない理由は単純ではなのです。確かに予算や敷地条件から最初に無理そうなものは無理と割り切ってしまうと案外判断は楽になります。なまじ何とかできそうだとか、求める理想が高かいとかしているとなかなか諦めきれず、ぐずぐずと優柔不断になってしまうのです。特に住宅にはそのような要素が多く、殆ど決まって最終段階のときでも、新たな要素が加わって全体のバランスが崩れ、最初から考え直すこともなくはないのです。

しかしこの優柔不断は創造行為にはつきものです。創造とはこれまでにないものをつくることですから、割り切った考えからは生じません。割り切れるということはわかっている範囲内のことをしているからできるのです。いまだ存在していけど望ましい理想があってそれを何とか実現しようと思っている限りそれは割り切れません。だからこそ、新たなものが生まれる創造行為になるのです。

でもだからといって優柔不断、即創造行為とはなりません。単に知識がなく、それなりの人ならすでにわかっていることを無知のために苦闘していることもあるからです。そのせいか頭がよいといわれる人には優柔不断な人は少ない気がします。でも優柔不断の言い訳ですが、頭の良い人が事前にわかっていて避けた無駄あがきにも、住宅の場合、割り切れる知識のケースとはどっか異なっている部分があり、それがその知識とは違う何か新たなものを生み出すことに通じることもあるのです。ある意味先が良く見える明晰な人には創造的な解決策はは生まれにくく、愚直なほど粘っこい人の方が創造的なものを生み出す可能性があるのではないかと、勝手に言い訳をしています。