続、住まいづくり、うまく転がる家、転がらない家

うまく転がっていく家は何が違うのか考えてみました。

まず、うまく転がって行く方は、うまく転がそうという思考は微塵もありません。
むしろ、すごく優秀な方なのに驚くほど謙虚で何事にも丁寧です。作為はなく、心底、慎み深い方のようです。
基本的な考え方や判断にぶれがなく、私どもに設計依頼に来た時も他所と比較することは眼中にない様子で、引き受けてくれるかどうかだけを気にしていました。

本来建築行為は経済行為で、ビジネスです。対価を支払う以上それに見合った成果をします。
それは双方の意識に権利義務の感覚を発生させます。
当然ながら建築費を支払う方はそれに見合った成果を少しでもより高く権利として要求し、作る方には義務感が生れます。

その関係をうまく転がる方の場合、決して権利義務の関係から相手に要求している様子はなく、あくまでお願いするスタンスで相手に要望する感じです。その証拠にその要望にこたえ切れなかった場合も、努力した上での結果なら、自分にも何らかの足りない何かがあったのかもと考え、運命として引き受ける用意が感じられます。しかも何も問題がないからそうしているのではなく、現場でも、個人的状況でも簡単ではない問題や事態が生じているにもかかわらずにそうです。

建築のうち、商業建築やメーカー等の販売型規格住宅の場合は誰がやっても同じ経済行為としてなされる請け負い行為です。
請負とは建築関係者は、請けたら負けと自嘲気味に言い合っています。請けたら言いなりにならざるを得ないので、通常ですと感情を押し殺して必要なことはちゃんとやろうとはしますが、余計なことは疑問を感じても、色々な人がいるので、でしゃばらないようにと黙って割り切ってやろうとします。依頼者に作業の間違い探しやシビアな作業精度など権利としての要求が過大なっていったら益々萎縮し、その度合いは増していきます。

それが謙虚にお願いされ、また多少の不具合や間違いの修正をおおらかに許容し、一挙手一挙手に感心されたり、作業結果に喜びや感動を見出し、感謝されたりすると、それは誰でもいい関係の仕事からその時点で、個別的関係に変化することになり、作業の一つ一つも個別性を際立たせることになります。
そうなると個人的感情や職業観が露になり、その時の建築関係者がものづくりに誇りや情熱がある場合、より積極的な方向に変化を促すことになり、必要以上の行為を引き出します。それぞれが勝手な方向にやり出したら収拾がつかなくなりますが、作ろうとしている方向に共感を覚えてまとまっている集団であれば、一足す一がニではなく、三にも四にもなっていくことになります。

これは、近代教育で養成された資質と真逆の方向です。近代教育では騙されないように、より知識を増やし、対象を批判的視点でより細かく観察し、少しでもおかしいと思えるところがあれば、権利義務の観点から厳しく指摘し、少しでもより良いものを求めていかなければならない。何事でもそれが一生懸命やるということだと教育されます。うまく転がらない家の方の相談事ではなぜかこのような背景が見受けられます。

しかし、うまく転がる家の方ならどんな建築関係者でもうまく転がるのかと詰め寄られると、業界の平均や実態を知っていると、確かに、そうだとは言えず、むしろ殆どの場合騙されないまでも後で後悔するような事態になるかもしれません、といわざるを得ない気がします。最初の選択がおかしなものであったら悲劇になる可能性があります。

しかしうまく転がる方の場合、それまでの生き方で、適切な建築関係者を選択できる直感や考えにたどり着ける能力が身についているような気もします。また周囲にもより良いアドバイスしてくれる方がいるなど、結果として適切な道を選んで行くような気もします。

いずれにしろうまく転がって、関わったみんなが喜べる建築をしていきたいものです。