2010-11-27 

設計の技は状況設定力―臨床対応構想展開力―が問われる

前回に引き続き、矛盾することを矛盾のまま矛盾なく執り行って目的を適える、武術的設計はどう実践されるかについて考えて見ます。設計で知識やノウハウを運用する際、その知識やノウハウそのものが技ではなく、そこでの様々な条件をどう設定し、組み立てるかが設計の技ではないかという仮説の話です。条件選択と組み合わせの加減や順番、応用時期、依頼者や施工者への説明、法律の解釈、状況の読み、問題のしぼり込み、等々、それは現場(実践)対応力というようなものに近いのかもしれません。それならマニュアル化できそうですが、ところがそこにはマニュアル化できない大きな要素を含んでいてそのことについて考えて見ます。

臨床:実践される場はその現場の捉え方から違ってきます。現場というより臨床というべきものです。なぜなら依頼者の状況に対峙し、従来の手法で解決を図ろうとして、容易に解決できない部分が生じたとき、その状況を“仕方がない”と思ったらそこには矛盾は存在しません。設計者によって“しかたない”と割り切るか、“見えないけどなんか方法はあるのでは”と割り切れない違和感を覚えるかどうかで取るべき道は違ってきます。そこに何らかのもうちょっとなんとかし得る方法があるはずだと思えたら、そこは従来のノウハウを踏襲するだけの現場ではなく、最適な有り様に何かが欠けた状況と見る、“臨床”となります。この、もっといいあり様が可能ではと思う直感や臨床認識こそがまずは矛盾を感じさせる力ではないかと思われます。この矛盾を感じ取る能力が技に通じるのだと思われます。

対応:従来の技術や手法だけで単純に解決を図ろうとすれば、できることと,できないことが明快で、矛盾は存在しません。依頼者の提示した状況に従来の手法で十分な対応ができないとき、設計者に、より適切なもの(理想)を求める意識が強く、多様な技が身に付いて(内包して)いて、対象へのやさしいまなざしを持ち得ている場合は、何らかの違和感もしくはより良くなる可能性をかすかに感じさせます。そのような対峙の仕方をする対応をしてこそ臨床と捉えることが可能です。

構想:臨床と捉えられたとき、その臨床状態とそうでない健全状態を想像し、そうでない状態に持っていこうとして何が矛盾や障害となってくるのかを見極めます。その障害を取り除くとか、避けて通るとか、何とか矛盾なく取り扱おうとし、あるいは求めるあり様を実現しようとして、あらゆる方法と仮説の可能性を検討します。それが構想です。

展開:そして矛盾だらけの諸条件の中から糸を通す程度の針の穴のような極わずかな可能性の中からでも、理想に近い状態を適える状況設定と方法を展開していきます。そのもっといいあり様を求めて、それを可能にする状況(条件)設定の技量を、これまであまり技や力と意識せずにやっていたような気がします。でもこれこそが物事を前に進める推進力として最も重要な技量なのではないかと思い直しています。これが武術的設計手法の起承転結である“臨床対応構想展開力”ともいうべきものではないかと勝手に名づけています。

こんなことを小難しくわざわざブログで取り上げたのは、今日、このような力が、単に設計者の世界だけではなく、色んな分野に通じるものではないかと思ったからです。その技量が衰えてきているのに、その衰えを意識せず、十分な状況(条件)設定を考えずに、単なるノウハウや知識を集め、マニュアルや慣習化した従来のシステムだけで何とかしようとし、結果として個々の現場の本来の能力を十分に発揮できず、無駄に消耗させ、全体として社会そのものを脆弱にさせてきているのではないかと思われます。状況設定技量をもう少し意識して見る事も悪くはないのではと思ってのことです。

 

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2010-10-17 

今回は設計における術について考えてみます。最近面白い対談集を読みました。
 ―「武術とは矛盾を矛盾のまま、矛盾なく取り扱うもの」というのが私の定義ですが、これは禅の影響でしょうね。普通は「こちらを立てればあちらが立たず、あちらを立てればこちらが立たず」なものですが、限定条件付きながら、あっちもこっちも同時に立つのが技の妙、術だろうと思っています。そういう世界を先に体験してしまえば、さまざまな矛盾をストレスと感じるより、自分の解くべきパズルとかんがえるでしょう。同じことでも立ち位置が違えば、全然違って感じられるしょう。―(甲野善紀、内田樹、『身体を通して時代を読む』文春文庫。)

 この文章を読んで、まさに設計そのものだと叫んでしまいました。「武術とは矛盾を矛盾のまま、矛盾なく取り扱うもの」を私なりに解釈すると、例えば相撲では、対戦する関取の双方とも相手を何らかの技を用いて土俵の外に押し出すか、相手の足以外の体に土をつけさせようとし、その目的はお互い矛盾しています。その矛盾を矛盾のまま矛盾なく取り扱って相手を押し出すか、土を付けさせます。結果として自分の技がかかりやすい状況に持ち込みえた方の技がかかり、片方にとっては矛盾なく取り扱って目的を達成し、もう一方にとっては矛盾のまま取り扱い目的を達成しえなかったことになります。

建築においてこれまで技術という言葉は、施工ならいかにも技術だと理解されやすいのですが、設計では技術というのにはどっか引っかかるものを感じていました。各部の適量を計算等で導き出す構造設計や設備設計では確かに技術といえる要素が大きくなります。しかし意匠計画という全体設計は、保存計画ならいざ知らず、再現行為ではない限り技術とはいえないのではないかと思っていました。

図面を手で描いていた時代なら描くという技術はありえるのかも知れませんが、キャドで描く今日ではなおさら図面の再現という意味では技術的ですが、それは設計というより、操作技術という方が正しくなってしまいます。でもそのせいか設計を単なる知識やノウハウ集の適用操作であるかのように考える傾向が強くなってきていて、それは設計ではないのではと疑問を感じていました。しかし実際に、建築の教育に関係するところでは、そのノウハウを知識として与えれば、それを適用操作するだけでいい設計者になれるかのように教えています。建築や住宅の雑誌も、そのように捉えてなのか、ノウハウ集が花盛りです。しかしある時期から、それはどうも違うのではないかと思い、それを人に説明できないまま、これまできました。
 
建築の全体を考える(意匠)設計こそまさに、あちらを立てればこちらが立たずで、矛盾する要求や条件を矛盾なく取り扱い実現させていく行為です。設計者の意識に、依頼者の状況に応じた最善(理想)を求める度合いが強ければ強いほど、その矛盾は大きく立ちはだかります。その矛盾する条件を的確な限定条件を設けたり、そこでの状況の特殊性の活用を考えてみたり、タイミングに気を使うなどして、そこでしかありえない形で様々な矛盾を矛盾なくどちらも成り立たせようとします。まさに武術です。特に住宅の設計はノウハウや情報をいかに集めても、むしろその情報が多ければ多いほどよけい選択や組み合わせが難しくなります。また様々な要因が多く、単純に運用しただけではどっかに成り立たないことや綻び、あるいは問題となる部分が多く潜んでくるものです。個々のノウハウの一つ一つはある仮定条件下では優れていても、それと全く同じ条件下で運用されることはありえなく、むしろノウハウが優れていればいるほど、ちょっと異なる条件下での運用は副作用が大きくなります。

 相撲の技48手を全て知っていたからといって相撲で勝てるわけではありません。知識や情報はそれだけのものでしかなく、技がかかるときは技が優れているからかかるというより、相手と自分をその技がかかるような状況に、上手に持ち込めるかで決まります。むしろ強い力士は技の数は少なく、どんな場合も自分の得意技に持っていき、勝利を収めています。技がかかりやすい状況設定の技量こそが重要だということです。
設計も望ましい有り様の住宅を実現するためには、素晴らしいノウハウを数多く集めるより、矛盾の多い与条件下に過不足なく的確で効果的な手法を如何に選択し、どう優先順位をつけて組み合わせ、単純には適用できない状況下、適用できるように条件をうまく整え、従来の手法も新たな工夫をすることで、矛盾を矛盾なく取り扱い目的を実現します。

 それら諸条件は予算であったり、敷地条件の誰もが見逃してしまいがちな小さなレベル差や近隣の窓であったり、必要と思う設計者の直感的こだわりや優先順位であったり、試行錯誤の中での発想や粘り強さであったり、考え方の転換であったり、建て主の何気ない一言や工務店の監督の意見であったり、メーカーの在庫であったりします。もちろんそれらの条件が矛盾を大きくかつ多くしてしまう事もあります。最初は何がどう相互に影響しあってそれらの条件が整うのか分かりません。最初からは計算できない要素が多く含んでいます。でも終わってみればどうって事のないことで、何で最初からそうしなかったのかと思われる、案外簡単なことの組み合わせが多いことも事実です。

 この辺の技の運用の仕方は設計者によってもやり方が大きく異なり、同じ条件ということはありえないので、ある者のやり方は、別な者にもできるというものでもありません。それは設計者で大きな違いと差が出るもので、その設計者にしか出来ないやりようがあるということです。その辺は簡単に言葉で伝えられるものではなく、他の者が同じように真似ても、設定条件が少し違っただけで大火傷をしてしまいかねないものもあります。また同じ設計者でも、あるときにできた建築がいつでもできるというものでもありません。むしろ最良と思えた建築は、そのとき以外では状況が違ってしまい、二度と同じようにはできないことの方が多いものです。

 相撲でも今場所10勝した者が来場所も10勝できるとは限らず、その時の体力、稽古量、立会いのタイミング、相手等々、要素が少しでも変われば同じような結果は生み出せないということと同じです。それが技は知識ではない証です。
そういう意味で、これまでつくってきた住宅は、今、同じものをつくれと言われても、殆どの住宅は二度と同じ条件では作れない気がしています。その時でしか出来ない条件をいかに有効に活用したかで可能となった住宅ばかりです。まさに胸張って設計という武術で建てた住宅だったと言えるような気がします。

 

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2010-05-10 

評価や判断のことを考えていたら、『あなたはなぜ値札にダマされるのか』?不合理な意思決定にひそむスウエイの法則―オリ・ブラウン/ロム・ブラウン共著(日本放送出版協会)に出会いました。日本人のデータではないので最初のテーマから大分離れますが。

そこには、人は合理的なようで不合理な意思決定をよくするとあります。失敗したスペースシャトルチャレンジャーの打ち上げも、事前にその危険性と原因を報告されていたのに回避できなかった、とか、損失を回避しようと思ったとたん、不合理でもリスク回避に偏った判断をしがちであると言っています(損失回避の法則)。また一つのことを続けていると執着心が湧いてきて、他の道を選べなくなる傾向があるとも書かれています(コミットメントの法則)。
そのなかで、さもありなんと思われるのは、自分の価値基準(先入観?)に惑わされるという項です。ワシントンの地下鉄で、世界でも指折りのヴァイオリンニストに野球帽をかぶらせ、ジーンズ姿で、ストラデイヴァリュウスで演奏をしてもらったところ、拍手喝采は起こらなかったとそうです。つまり人は正装、舞台、演奏者が誰かとか、ヴァイオリンの種類は何かとかいう事前情報で、演奏の質を判断していたとのことです。演奏の本質ではなく、自分の中にある演奏の状態に対する価値基準(の法則)に支配されていたと言うのです。

また、NBAのバスケット選手で、平均的に長くプレーを続けていた者は、ドラフト1順目で選ばれた選手の方が3.3年長くプレーをし続けていたと言う結果があるそうです。理性的に考えれば入団したらドラフト順位は関係ない実力の世界のはずなのに、コーチなど一番良く技量を見ている者ですら、最初のドラフトでついたラベルに目が曇り、評価のバイアスがかかり、素晴らしいプレーもドラフト順位以上に影響を与えないと言う結果があるそうです。学歴や学閥などもなくならないのはこの評価のバイアスの(法則)なせる業でしょうね。

その他色々不合理な判断の例が記載されていますが、日本人ならもっと比率が高いかもと思われる例があります。4人の内3人をサクラにして、客観的に誰にも分かる長さを判断させる質問をし、サクラ全員に間違った答えを言わせ、最後に被験者に答えさせたら、75%が正解を言わなくなる(グループ力学の法則)そうです。冤罪などでも聞く怖い話です。マスコミやメディアの評価など、よく聞く話です。もちろん建築も、特に雑誌など、まず編集者のバイアスがかかり、面白がる読者向けの評価で誌面構成をしがちであることからユーザーの評価基準とどうしてもずれてしまいがちです。それに惑わされると言うことは大いにあり得ます。

と、かようにひとの判断や評価は世界的に当てにならないと言うことです。まして辺境の地に育ち、右倣いの判断をしたがる日本人なら人を評価するということに自信がもてないのもうなずけます。何かと日々の忙しさに追いかけられ、状況に左右されっぱなしの自分では、自分独自と思っていた判断もなんか自信なくなってきました。せいぜい声の大きい意見に惑わされないように気をつけないと。

 

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2010-05-09 

 日本人は海外の思想や発明技術を取り入れ自分流に修正するのがうまいといわれます。仏教、文字(漢字)、西洋文明や科学技術の数々、外来語等、廻りに満ち溢れています。私たちは他所のいいものを取り入れる能力、というより取り入れようとする力が働くようです。少なくとも自分たちのものが正しくていい、という主張しようとする意識はなく、どうも正しいもの、いいものは他所にあり、それを学び取り入れるのが良いと思うようです。そのため学会でも海外の研究論文の翻訳や紹介で学者として著名になる人は少なくなく、建築でも数十年前までは海外のコピーは珍しくなく、それで名を馳せた人も数多くいます。

しかし日本で考えられた独創的なものがないかというとそうでもなく、日本では評価されず、海外で評判になり、逆輸入されるケースが多いようです。桂離宮もタウトに評価をされて日本人もあらためて高く評価をするようになりました。極めつけはISO14001(環境システムマネジメント国際規格)です。本来日本のJISやJAS規格に環境の項目を課していたら、日本の方がよりいいものができていたのではともいわれています。欧州で規格が制定されたので、海外進出に関連する日本の企業は3年毎に多額の審査料を支払って認証登録しなければならなくなっています。
 
どうして日本人は、身近にすばらしいものが生じても、海外で評価されたもののように評価できないのだろうと不思議に思っていました。読んだ方も多いと思いますがその答えが『日本辺境論』内田樹著(新潮新書)にありました。
 勝手な解釈ですが、自分たちが世界の中心という中華思想に対して、日本人には自分たちは辺境の地にあり、少なくとも自分が中心ではなく、あくまで中央から来るものが正しくいいものなのだ、という考え方染み付いてしまったというのです。他人を説得するとか、評価をしてもらうためには虎の衣を借りる必要があったというのです。
 
謙虚といえば謙虚ですし、学ぼうとする向上心は誇っていい気質と思います。確かに日本では自分のものが正しいとか、いいといい張るのは、傲慢だとか、はしたないと思われる傾向があります。しかし、私が気になるのは身近のすばらしいものを評価できず、他所で評価されてはじめて評価しようとする環境です。さびしいものがあります。独創的なものを育て、自分たちが生み出すことが難しい社会のような気がします。
 
辺境の地にあったために、海外からのものを評価する癖がつたということはわかったのですが、だからといってかたくなに身近なものを評価しない傾向は、今ひとつ不思議でした。そしたらもうひとつ別な考え方もあるということを発見しました。それは『日本の難点』宮台真司著(幻冬舎新書)にありました。
これも自分勝手な解釈ですが、そこには、根本的に、人は人間が創った〈世界〉や仲間が創った〈社会〉を受け入れられないからだとあります。それは内側にいる存在が創った〈世界〉の場合、誰かに都合よく創られた可能性を排除できないからです。また自分と同じような数多くいる(共同体の)成員が作ったとしたらその者の恣意性は排除できずそれに耐えられないからというのです。万人を納得させるような者が創った〈世界〉でなければ耐えられないというのです。天皇制もそのために存続し続けて来たのかも知れません。多数決や民主主義もそれが正しいからというより、納得させるための手続きとしてまだましだから採用されているというのです。

つまり身近の者を評価するということは、自分とは別の者(決定者や権威者)にすることを許容することになり、容易にはできない、あるいはしたくないからと解釈しました。それが自分のあずかり知らぬところから来たものの評価なら、是非は別にして、ご託宣のように受け入れられるということなのでしょう。それで海外で評価されて、はじめて日本での評価が一般的になるということなのでしょう。
 
 だから、皆さん仲間や同僚、とくに奥さん(ご主人)からなかなか評価してもらえなかったのだと理解できました?

 

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