大きな落書きと韓国客船事故

011

上が前回までの大きな落書きで下が消されてしまった落書きです。

001

誰かに咎められたのか、大きな落書きが消されてしまいました。お昼の密かな楽しみが終わってしまいました。

この大きな落書きは、建物の外壁の改修工事です。小さな鉄球で外壁を軽く叩いて、音で浮いているところやひび割れ部分を見出し、浮いている内部にエポキシ樹脂を注入し、ひび割れはそこを少し叩いて拡げ、シールを施してそこに雨水が侵入しないようにします。シール前にそこが分かりやすいように、割れに沿って色分けしながら、マーキングしているのだろうと思われます。その後全面に塗装を吹き付けます。タイルの場合、そこの部分を新しくすることもあります。
通常は建物周囲に足場を組み、養生シートで覆って行う作業ですが、足場ペースがないのか、予算節約のためか、屋上からロープで作業者を吊っての仕事となったようです。ビルの外部からの窓掃除と同じように危険な仕事です。前回屋上から吊り降ろした大きな布は塗装が他所に飛び散らないように作業個所だけ覆っていたものです。誰でも出来るやり方ではありませんが、なかなか合理的でうまいやり方をしています。でもこのような役割を担ってくれる者がいるから、社会は成立しているようなところがあります。
先日韓国で、客船の遭難事故が発生し、多くの犠牲者がでました。その犠牲者の多くは、客船で働いていた関係者の対応如何で助かったかもしれないと思われます。驚かされたのは、船長をはじめ客船で働いていた従業員の業務意識です。
本来仕事は、社会の中で求められた役割を果たすことで社会的認知がされ、働く者の自己の価値確認ができ、充実感が得られます。その証として報酬も与えられます。それが今回の事故の場合、経済競争の中で、いつの間にか個々の働いている者の意識が、その仕事の存在理由である、客を安全に目的地まで運ぶという、社会的役割意識から、指示された作業のみが自分の仕事で、その労働時間(行為)のみでそれ以上の義務はない、という意識の方が勝っていたために、起った事故ではなかったのかという危惧が消えないでいます。つまり、船が沈みそうだから自分の持ち場の作業ではなく、労働時間もそこで終わりになるということで、自らの仕事を切り上げたとも、捉えられなくもないということです。
これは、多くの職人の作業の積み重ねで出来上がる、建築等のものづくりの世界では考えられないことです。しかし建築の業界も今日の価格競争から、建設費の限りない生産の合理化要求で、手をかける度合いを少なくせざるを得なくなり、現場で働く者の役割意識を社会的なものから局所的な役割分担にさせていく傾向にあります。役割意識もそこでの仕事がなぜ成り立っているかの認識がないと、自分はこれだけやればいいという、単なる身内ないでの持ち場の役割だけの意識で、客船事故と同じ過ちを犯しかねない気がします。これはJR北海道のような大きな組織になればなるほど、より形骸化し、その傾向が顕著になる危険が潜んでいるのでは、という気がします。
だれでも自分のやれることには限界があり、自分の持ち場だけで精一杯なのかもしれません。小さい現場でも各個人の全体的役割意識の鈍化は抗い難く、限られた時間内だけ言われた通りやればいいのでは、しかもそれをうまくやれさえすればよい、というようになってきているように思えます。このようになったら建築の現場は難しくなります。建築は色々な役割を担いあうことによって全体が成立する世界です。
韓国での客船事故は決して他人事で済ませられません。その因子は日本にも蔓延っているのか、今建築の現場では各種の検査や審査が多くなり、かつやたら細かくなって来ています。しかも殆ど重箱の隅を突っつくような指摘が多く、本末転倒ではないのかと思われることが多くなってきました。これはまた長くなりますので、又の機会にします。