暮れの窓拭きしながらホモ・サピエンスの明日を考えた

 住宅設計で私は、陽射しや視界を気にし、開口を大きく取る傾向があります。

 自宅もその類を免れず、開口面積が大きく、明るく陽射しも入り、悪くはないのですが、暮れのガラス掃除は当然自分の担当になり、午前中いっぱいはかかってしまいます。多分、私どもの設計のせいで、同じような被害を被らせている方は少なくないかと思われます。ごめんなさい。

 昨年の暮れも陽射しの暖かい日に、腹をくくってバケツと雑巾等を持って耳にスマホからのイヤホーンをつけて、外部から始めました。窓拭きは綺麗にしようと思うと、限りなく気になり、時間もきりなくかかります。はしょろうと思えば、作業後の批難を覚悟すればそれなりに、はしょることもできます。

 背に陽射しを受け、どうせ早く終わっても他の作業を手伝わされるのがオチだからと、音楽を聴きながらそれほど苦痛もなく、ルーティンワークとして無心になって始めました。よく聞き慣れている音楽だと聞き流しながら、手とは別に頭は自由に思考ができます。馴染みの少ない曲やしゃべりのあるラジオ等では、ついそっちに聞き耳を立て、手は動いていても思考はそちら引きずられ、作業も効率良くは進みません。 

 世代差はあるでしょうが、作業や勉強をしながらでも、何かを聴き、あるいはスマホを見ながら、場合によってはテレビもちらちら見ながら作業ができる人が多くなっているようです。そうしていないと不安になるという人もいるようです。私のように手だけは動かせても、思考は一つにしか集中できない人種には、マルチタスクの可能な、新たな人種が登場してきたかと思ってしまいます。

 またその反面、SNSのようなツールを活用したコミュニケーションは長けているのに、面と向かっての会話は苦手になっている人も多く見られます。さらにそのような会話で自分の意向を上手く伝えられない人や、相手の言動やしぐさ等から、相手の意向や心情を的確に推し量るコミュニケーションが上手くできないで悩む人も増えているようです。これは伝達手段が直接表情から読み取ることから映像や音声データから読む方法に移行しつつあるということでしょうか。

 ネアンデルタール人はホモ・サピエンスよりも個体的身体能力は優れていて、脳も大きかったのに絶滅し、数多くいた人猿から進化したホモ属に属する動物の中で、ホモ・サピエンスだけが生き残ったそうです。その理由は集団の力を発揮する能力が優れていたからだと「サピエンス全史」(ユヴァル・ノア・ハラリ著、河出書房)では説明しています。

 ある意味個体としての身体能力が弱かったことが集団化能力の育成を促したとも理解できます。ただし個人的親近感や信頼感から集団としての力を維持、発揮できるのは、せいぜい150人までだそうで、それ以上の千、万単位の規模では個人的信頼関係だけでは不可能とのことです。それ以上の千、万を超える集団を形成し、維持させる能力は個々人が、信じられ、自分を捧げまたは托す意味や意義を見出すことのできる集団への想像力が必要だったとのことです。巫女のような存在への信頼、軍事的力を伴った政治指導者の幻想国家への委託、宗教への信心等、個人的信頼感を超えて個々人が托することが出来るものとして、想像を共有できる能力が備わっていたから、と読みました。

 例えば十字軍に志願する若い人には自分の命を捧げても良いと思えるほどに神の存在を想像でき、世界大戦では徴兵されて戦争に赴く人は、身を託するだけの意味あるもの、あるいは託さざるを得ないものとして、実体のない国家も意味あるものとして想像(幻想)することができたから、ということです。

 近代社会ではかつてほど神や国家に対して身を托するほどの幻想を抱くことは難しくなり、個々の生命は地球より重い、という個々人を尊重する民主主義(市場主義)=人間至上主義が共通価値観として共有されてきたと言います。

 その民主主義も自国ファーストや民族主義の高まりで大多数を統合する決定機能として怪しくなってきていて、市場主義も想像以上の格差社会を生み出し、行き詰まりを見せてきているのも事実です。

 人間至上主義の根底をなす自己も、例えば、ダイエットをして身をスリムにしようとするストーリーを描いている自分と、今日は寒くてジムに行きたくないという自分の、どちらが本当の自分なのか、わかっているようでよくわからない、不安定なところがあります。むしろ個人データとしてGAFA(フェイスブック、アマゾン、グーグル、アップル)のようなネットのプラットホームに収集されてある記録(例えば現在では買い物情報や使用薬剤または健康状態など)等々のデータがさらに多く整備される社会になれば、その方が信頼に足る本当の自分で、そのデータからAIが考えた指示に従って行動するする、データ教になりつつあるのでは、とのことです。(「ホモ・デウス」同一著者)

 データ教の社会になれば確かに顔色を伺いながら意向を読み取る伝達能力より、データのやり取りをどれだけ多くできるかの能力の方が重要になってくるのかもしれません。確かに狩猟採集社会での、獣の匂いを嗅ぎつけ、雲の様子から明日の天気を予測するなどの、個人的身体能力は、現代人の方が劣ってきていて、剣での殺傷能力が不要になってきたように、必要な能力は変遷してきたことは歴史が証明しています。

 マルチタスクの可能な人が多くなったということは、ガラス拭きですら、ラジオ等に引きずられて思考も自由に集中できず、作業に多少の影響が出る自分のようなホモ・サピエンスは絶滅し、マルチタスクが可能な若い人たちのような人種に移行しつつあるということなのかもしれません。

 しかも空気を読むことが苦手とされる若い人のコミュニケーション不足は、時には発達障害ではないかと、問題にされてきているのも、もしかしたら、対面での伝達方式からデータのやり取りの方が重要とされる時代へのホモ・サピエンスの移行期の現象かもしれません。だから相互理解や論理的な議論で物事を止揚させながら決めていくということが苦手な人が多くなり、様々な世界会議でも国会でも地球温暖化対策も原発から自然エネルギーへの変更も決められないでいるのかもしれません。

 人間に完璧な人はいないように、多かれ少なかれ、誰でも多少の発達障害を持ち合わせている部分があり、新しい時代の人種は少なくとも古い時代の能力には欠けているのは当然と考えると、あながち嘆くに当たらず、どちらが明日の時代に即応するのか誰にもわからないのかもしれません。

 設計作業でもこれまでイヤホーンを着けて作業をしている者もいました。見た所、ルーティンワークの場合はいざ知らず、色々なことに配慮が必要な設計作業や作図作業ではスピードが遅く、配慮に気づくことも少ないように見受けられました。でも今日すでに作図では、メーカー等の商品データからかなりの部分は検索で取り出す時代になっていて、その能力は必須になっています。

 もしかしたら設計での様々な配慮も、生産性重視が問われる社会にあっては、余計な能力となり、今は未だ無い様々な配慮のデータも多く整備され、問い合わせれば検索で答えてくれる時代になれば、設計者も要求されたデータを数多く、素早く取り出し組み合わせる能力の備わったホモ・サピエンスが求められるのでしょう。しかもその能力はなまじ自分で総合的に考えようとする者より、あまり考えず指示通り動く者の方が生産性を高く評価され、ある意味ロボットのようにAIのデータ通りに都合よく動く者が明日の時代にかなった人種になっていくのかもしれません。しかもそのうちそれらの作業はAIが全て行うようになり、その人種は不要者階級のホモ・サピエンスとなり、AIを駆使できる神のような、ごく一部の極端な富裕階級のホモ・サピエンスとに分離されていくのではと、「ホモ・デウス」から読み取れます。

 しかしマルチタスクができず絶滅危惧種の自分としては、将来AIの学習に必要とされる設計上の配慮を、経験値データとして日々の業務の中で数多く生産・蓄積し、データを提供することでしか、わずかの時間だけかもしれませんが、ホモ・サピエンスとして生き延びる道は無さそうです。

 あらかた窓ガラスも拭き終わり、まあまあ綺麗になったようですので、片付けて中に入れてもらおうかと思います。