月: 2010年5月

永代橋とスカイツリー

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先日ちょっと用があったので、月島に行ったのですが、帰りに少し時間の余裕があったので、佃島の方まで歩いてみました。

写真は、永代橋の向こうにスカイツリー。展望台をつくっていますね。
事務所からも見えるスカイツリーですが、ここから見ると水の上にスカイツリーが建っているようで面白いです。


増築の解体がはじまって

増築現場の解体が始まりました。

一階部分を残しそこで生活しながらなので、工事屋さんとしては通常の一棟丸ごと解体する場合よりかなり気を使う部分はあると思うのですが、結構簡単に骨組みだけになってしまうものだなあ、と感じました。これから2ヶ月ほどで、必要部分に筋交いで補強し、既存の梁や柱を可能な限り残しながら、屋根なりに天井を貼ってLDKの大きな空間を確保し、必要な個室や収納を整え、設備機器を新たに設置していくことになります。

増築を経ながら30年近く家族の成長を支えた後、2、3か月の工事期間でリフレッシュして、新しい世代の住まいとしてまた生まれ変わる・・・。木造建築の柔軟性を感じています。現実としては、新築と比べると確かに大きくつく経済的負担や法律上の制約の存在が、木造建築としての可変性を活かし切れていない原因のひとつだと思います。

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自分で独自に評価判断できないパート2

評価や判断のことを考えていたら、『あなたはなぜ値札にダマされるのか』?不合理な意思決定にひそむスウエイの法則―オリ・ブラウン/ロム・ブラウン共著(日本放送出版協会)に出会いました。日本人のデータではないので最初のテーマから大分離れますが。

そこには、人は合理的なようで不合理な意思決定をよくするとあります。失敗したスペースシャトルチャレンジャーの打ち上げも、事前にその危険性と原因を報告されていたのに回避できなかった、とか、損失を回避しようと思ったとたん、不合理でもリスク回避に偏った判断をしがちであると言っています(損失回避の法則)。また一つのことを続けていると執着心が湧いてきて、他の道を選べなくなる傾向があるとも書かれています(コミットメントの法則)。
そのなかで、さもありなんと思われるのは、自分の価値基準(先入観?)に惑わされるという項です。ワシントンの地下鉄で、世界でも指折りのヴァイオリンニストに野球帽をかぶらせ、ジーンズ姿で、ストラデイヴァリュウスで演奏をしてもらったところ、拍手喝采は起こらなかったとそうです。つまり人は正装、舞台、演奏者が誰かとか、ヴァイオリンの種類は何かとかいう事前情報で、演奏の質を判断していたとのことです。演奏の本質ではなく、自分の中にある演奏の状態に対する価値基準(の法則)に支配されていたと言うのです。

また、NBAのバスケット選手で、平均的に長くプレーを続けていた者は、ドラフト1順目で選ばれた選手の方が3.3年長くプレーをし続けていたと言う結果があるそうです。理性的に考えれば入団したらドラフト順位は関係ない実力の世界のはずなのに、コーチなど一番良く技量を見ている者ですら、最初のドラフトでついたラベルに目が曇り、評価のバイアスがかかり、素晴らしいプレーもドラフト順位以上に影響を与えないと言う結果があるそうです。学歴や学閥などもなくならないのはこの評価のバイアスの(法則)なせる業でしょうね。

その他色々不合理な判断の例が記載されていますが、日本人ならもっと比率が高いかもと思われる例があります。4人の内3人をサクラにして、客観的に誰にも分かる長さを判断させる質問をし、サクラ全員に間違った答えを言わせ、最後に被験者に答えさせたら、75%が正解を言わなくなる(グループ力学の法則)そうです。冤罪などでも聞く怖い話です。マスコミやメディアの評価など、よく聞く話です。もちろん建築も、特に雑誌など、まず編集者のバイアスがかかり、面白がる読者向けの評価で誌面構成をしがちであることからユーザーの評価基準とどうしてもずれてしまいがちです。それに惑わされると言うことは大いにあり得ます。

と、かようにひとの判断や評価は世界的に当てにならないと言うことです。まして辺境の地に育ち、右倣いの判断をしたがる日本人なら人を評価するということに自信がもてないのもうなずけます。何かと日々の忙しさに追いかけられ、状況に左右されっぱなしの自分では、自分独自と思っていた判断もなんか自信なくなってきました。せいぜい声の大きい意見に惑わされないように気をつけないと。


だから僕たち日本人は自分独自の評価をしようとしないんだ

 日本人は海外の思想や発明技術を取り入れ自分流に修正するのがうまいといわれます。仏教、文字(漢字)、西洋文明や科学技術の数々、外来語等、廻りに満ち溢れています。私たちは他所のいいものを取り入れる能力、というより取り入れようとする力が働くようです。少なくとも自分たちのものが正しくていい、という主張しようとする意識はなく、どうも正しいもの、いいものは他所にあり、それを学び取り入れるのが良いと思うようです。そのため学会でも海外の研究論文の翻訳や紹介で学者として著名になる人は少なくなく、建築でも数十年前までは海外のコピーは珍しくなく、それで名を馳せた人も数多くいます。

しかし日本で考えられた独創的なものがないかというとそうでもなく、日本では評価されず、海外で評判になり、逆輸入されるケースが多いようです。桂離宮もタウトに評価をされて日本人もあらためて高く評価をするようになりました。極めつけはISO14001(環境システムマネジメント国際規格)です。本来日本のJISやJAS規格に環境の項目を課していたら、日本の方がよりいいものができていたのではともいわれています。欧州で規格が制定されたので、海外進出に関連する日本の企業は3年毎に多額の審査料を支払って認証登録しなければならなくなっています。
 
どうして日本人は、身近にすばらしいものが生じても、海外で評価されたもののように評価できないのだろうと不思議に思っていました。読んだ方も多いと思いますがその答えが『日本辺境論』内田樹著(新潮新書)にありました。
 勝手な解釈ですが、自分たちが世界の中心という中華思想に対して、日本人には自分たちは辺境の地にあり、少なくとも自分が中心ではなく、あくまで中央から来るものが正しくいいものなのだ、という考え方染み付いてしまったというのです。他人を説得するとか、評価をしてもらうためには虎の衣を借りる必要があったというのです。
 
謙虚といえば謙虚ですし、学ぼうとする向上心は誇っていい気質と思います。確かに日本では自分のものが正しいとか、いいといい張るのは、傲慢だとか、はしたないと思われる傾向があります。しかし、私が気になるのは身近のすばらしいものを評価できず、他所で評価されてはじめて評価しようとする環境です。さびしいものがあります。独創的なものを育て、自分たちが生み出すことが難しい社会のような気がします。
 
辺境の地にあったために、海外からのものを評価する癖がつたということはわかったのですが、だからといってかたくなに身近なものを評価しない傾向は、今ひとつ不思議でした。そしたらもうひとつ別な考え方もあるということを発見しました。それは『日本の難点』宮台真司著(幻冬舎新書)にありました。
これも自分勝手な解釈ですが、そこには、根本的に、人は人間が創った〈世界〉や仲間が創った〈社会〉を受け入れられないからだとあります。それは内側にいる存在が創った〈世界〉の場合、誰かに都合よく創られた可能性を排除できないからです。また自分と同じような数多くいる(共同体の)成員が作ったとしたらその者の恣意性は排除できずそれに耐えられないからというのです。万人を納得させるような者が創った〈世界〉でなければ耐えられないというのです。天皇制もそのために存続し続けて来たのかも知れません。多数決や民主主義もそれが正しいからというより、納得させるための手続きとしてまだましだから採用されているというのです。

つまり身近の者を評価するということは、自分とは別の者(決定者や権威者)にすることを許容することになり、容易にはできない、あるいはしたくないからと解釈しました。それが自分のあずかり知らぬところから来たものの評価なら、是非は別にして、ご託宣のように受け入れられるということなのでしょう。それで海外で評価されて、はじめて日本での評価が一般的になるということなのでしょう。
 
 だから、皆さん仲間や同僚、とくに奥さん(ご主人)からなかなか評価してもらえなかったのだと理解できました?


りんごが教えてくれたこと

 無農薬栽培は他の作物では可能でも、りんごは不可能だ。これはりんごを栽培している人の常識だそうです。ところがそれを可能にした人の本です。『りんごが教えてくれたこと』木村秋則著(日本経済新聞出版社)
 
 10年りんごの無農薬栽培を色々試みて、どうしても虫で葉が落ちてしまい、できなく、破産者にまでなり、山で死んでお詫びしようというところまでいった方の話です。その山で首を吊るロープを木に投げたら勢いあまって飛んで行き、その木を見上げたら、りんごが成っているように見え、その木の見事な枝振りと繁った葉に、農薬を使ってないのにどうしてこれほどの葉をつけるのか、と下を見て、足元のかぐわしい土の匂いに、これが答えだと直感したといいます。
 
 木の下の土は雑草が生え放題、伸び放題、地面は足が沈むほどふかふかしていて、土が違うということに気が付いたというのです。それまで木の上のことしか見ておらず、雑草は敵だとばっかり思い込んでいたが、それが逆だったことに気がつたというのです。山では落ち葉や枯れ枝が朽ち、それを微生物が分解して土を作っている。それを応用して、雑草を刈るのをやめ、その草が伸びた頃、りんごの葉が落ちなくなったというのです。夏にもその雑草が土を乾燥から守り、水をやる必要もなかったそうです。
 
 本の紹介するつもりではなかったので詳しくは自分でお読みください。有機野菜の危険性についても書かれています。その中で特に共感させられたのは、生産性追及の農業が農薬や肥料の多投下を促し、効率に血道をあげてきた。その結果減反の必要を生み出した。
りんご1万円の売り上げに、肥料、農薬、機械に7000円かける農業と、5000円の売り上げに1000円以下の経費ですむ自然栽培の農業とどちらがいいのかと、問うています。
 また日本経済を樹木になぞらえ、中央の幹(首都)があって枝(地方)が伸びているのではなく、小枝の葉っぱがでんぷんを作り、幹を支えているのだといいます。
 
 これまで自分も十数年ほど森林(林業)のあり様に関心があって、木材を大量かつ多様に活用しきる工法をものにしたいと苦心してきました。これまでの木造とはまったく異なるもので、最初は先ず工法として成り立たせることに苦労し、3,4年かかり、木材(集成材)だけで60分準耐火構造壁を可能とする認定を取得しました。そのつぎにその木材が解体や部分交換でき、容易に間取りを変えられる工法とするためにまた苦心しています。それもやはり60分の準耐火の認定を取れるところまでこぎつけました。今その工法を誰もが容易に使用できるように、建築センターで構造評定を取れないか苦闘しています。さらに今後、乾燥と接着材にエネルギーをかけざるを得ない今の木造や集成材造を、天然乾燥した単なる板と板を木で結合た極めて自然な壁材や柱材でその工法ができないか考え始めています。そんなこともあり、自然栽培しようとする苦労や森の話などで共感するところが多く、ついこの本のことを取り上げたくなり、ブログで書いてしまいました。


優柔不断の言い訳?

この一週間は黄金週間でもあり、見ている人は時間もあるでしょうから、最近読み聞きしたことから成る程と思えたことを拾い集めて話をしたいと思います。独創的であることは保障しますが、写真は殆どなく文章も長く、見易くも楽しくもないブログになりそうなのでつまらないと思えた方は適当にパスしていていただけますか?

カタログを色々取り寄せて、検討ばかりして結局決められず、自己嫌悪に陥った経験ありませんか?またメニューや旅先など、物事を即断できず、周りの人から非難の眼差しをされたことありませんか?自分は自慢じゃないけど、通常生活でいつもその場での判断や意見を求められても即答ができず、無理やり答えてもろくな結果にならなかった経験は少なくありません。私はどうも大事に思えば思う程優柔不断になるようで劣等感を抱いていました。こんな私のような者にとって朗報です。

どうやら人の考え方に、その時々の状況を論理的に判断して決めていくやりかたと、その時々の判断を留保して自分の理想に照らし合わせて、最後に一つ一つを調整や修正を加えながら決めて行くやり方とがあるようです。前者を論理的思考(ロジカル・シンキング)、後者を統合的思考(インテグレーティブ・シンキング)と言うそうです。ロジャー・マーティングという人の『インテグレーティブ・シンキング』(日本経済新聞出版社)と言う本から教わりました。

自分勝手な解釈ですが、優柔不断はどうやら統合的思考から来ているせいではないかと思いました。そう思ったらとっても気が楽になりました。理想や目指すもの、あるいは気になるものがあり、それらを納得させるものが選択肢として提示されていない時、何とか理想を実現できないかと考えるタイプのひとは優柔不断に陥るのだと気づいたのです。

住宅の設計はまさに統合的思考そのものです。家づくりを考える方には誰にも望む住まい像があります。またそれとは別に家族や予算及び敷地の条件が存在します。希望と予算からすると可能と思えても、敷地条件に無理があったり、逆に敷地や家族にとって都合よいあり方を見出せても、予算や法規的に無理が合ったりします。その辺の無理さ加減が殆ど絶対的に無理ということではなく、他に与える歪でどうかなと訝しかったりとか、優先順位が違うように思えたり、決めきれない理由は単純ではなのです。確かに予算や敷地条件から最初に無理そうなものは無理と割り切ってしまうと案外判断は楽になります。なまじ何とかできそうだとか、求める理想が高かいとかしているとなかなか諦めきれず、ぐずぐずと優柔不断になってしまうのです。特に住宅にはそのような要素が多く、殆ど決まって最終段階のときでも、新たな要素が加わって全体のバランスが崩れ、最初から考え直すこともなくはないのです。

しかしこの優柔不断は創造行為にはつきものです。創造とはこれまでにないものをつくることですから、割り切った考えからは生じません。割り切れるということはわかっている範囲内のことをしているからできるのです。いまだ存在していけど望ましい理想があってそれを何とか実現しようと思っている限りそれは割り切れません。だからこそ、新たなものが生まれる創造行為になるのです。

でもだからといって優柔不断、即創造行為とはなりません。単に知識がなく、それなりの人ならすでにわかっていることを無知のために苦闘していることもあるからです。そのせいか頭がよいといわれる人には優柔不断な人は少ない気がします。でも優柔不断の言い訳ですが、頭の良い人が事前にわかっていて避けた無駄あがきにも、住宅の場合、割り切れる知識のケースとはどっか異なっている部分があり、それがその知識とは違う何か新たなものを生み出すことに通じることもあるのです。ある意味先が良く見える明晰な人には創造的な解決策はは生まれにくく、愚直なほど粘っこい人の方が創造的なものを生み出す可能性があるのではないかと、勝手に言い訳をしています。