シェア別荘・峠の我が家物語5独身らが創る別荘

土肥までの道の山桜


生まれて来た そのわけは 今もまだわからないけど
それでも 生きてゆく その意味は
少しだけ 分かったかも しれない
なくしてきたもの 置き去りにしたもの
いつも近くにいてくれたひと 大切なこと 大切なひと
生きてゆく その意味を 教えてくれた
ひとりではせつなくて 不安な日々に消えて行った夢も
 ・・・・・・・

小田和正の「風は止んだ」の歌詞の出だしです。シェア別荘をつくろうと思ったときのメンバーは殆ど独身でした。当時でも別荘を考える方は、殆ど50代以降の経済的余裕のある方が多かった気がします。そんな余裕などあろうはずもなく、20代独身の自分たちが創ろうとした時の意味合いは、当時とも、今とも違っていました。自立し始めて、まだ自己も確立できていない、自信のない独り身の、漠とした不安がある時期で、それを共有し、紛らわし合う仲間を欲していて、別荘はそのような場としての意味が強かったのかもしれません。それ故シェアは当然で、経済的余裕もないので、ハーフセルフビルド(半自力建設)も必然でした。そのような別荘の意味あいも、その後活用していくなか、状況や年代と共に変化していきますが、それは物語の進展に沿って話したいと思います。

西伊豆の土肥町という、人口6000人程の町に移住して、現場監督の職を得て、小土肥という浜辺の近くの3階建ての二階、40㎡2DKの社宅に、一人住み始めました。最初の仕事は町の中でも人通りの多い交差点に建つ、3階建ての鉄骨造の洋装店ビルの、二階の喫茶店の内装工事でした。手伝ってくれる大工さんと二人で、鉄骨の柱梁とALC版躯体剝き出しの、がらんどうの内部空間に、トランシット計測機器で、間仕切り壁の位置を測り、その線を床に原寸で描く、墨出しという仕事でした。これまでは製図で縮尺1/100か1/50で、虚像を書いていたのを、いきなり床に原寸で書くということは、とてもリアルな行為で、新鮮な感じでした。設計事務所で現場監理をしていた経験もあって、多少の緊張はあっても仕事にはすんなり入っていけました。

2DKのアパートの外階段から見えた菜の花畑

大阪での手伝いは、会う人に気を遣う必要もなく、髭を剃らずにいたので、移住してきた時は、立派な髭面になっていました。土肥町は人口流出傾向であったためか、転入してくる人は歓迎され、仕事柄、現場の職人さんやら、建て主さんやら、人と接する機会が多く、会社の人にも近所の人にも、珍しがられ、「髭さん」と親しみを込めて呼ばれていました。他所の土地で居づらいことがあって、観光地でもあった土肥に、板前などとして、流れ来る人もいたようでした。土地の若い人は殆ど都会に出ていくのに、この人はなんでこんな田舎に移住してきたのか、何か訳でもあるのかな、という好奇心や訝しさもあったでしょうが、そんな素振りは見せず、独り身でもあったせいか、皆さん優しく世話を焼いてくれました。

土肥の町はずれから見える富士

実は、訳というほどでもないのですが、仕事をするということについて、しばらく横道に逸れ、自分が最初の設計事務所に勤め始めていたころの話をします。勤めて三年目頃、自分が設計の仕事に向いているか疑問を感じていました。開口部周りの木枠の見付寸法は、25㎜が貧弱でもなく、野暮ったくもないが、和室の場合は30mmにしないと和風の雰囲気にならないとか、食卓の高さは通常700㎜にし、天板の厚みは30mmぐらいが美しい、などと㎜までこだわる仕事が、本当に向いているのか、という、働き始めの若いころ、誰もが感じるような疑問を覚えていました。

「神は細部に宿る」というディレクトの言葉の意味もよく分からず、外観や間取り等の全体像を考えなくてどうする、という未熟なあせりがあったのでしょう。設計事務所二年目の頃、監理で現場に一人で行かされ、施工会社の監督や職人さんに、ここはこのままだと納まらないけど、どう考えているのか指示してくれ、と監理者の力量を測るかのような質問を幾つもされ、分かっているつもりなのに、説明できるほど奥深くは分かってなく、四苦八苦しながら答えていました。面白さが分かるほど仕事を分ってない段階だったせいか、その時の盆休みの5日間、体調を崩して、アパートでおかゆだけ食べて、寝て過ごしていたこともありました。

そんな状況に、担当物件がちょうど途切れた時、給与はいらないからと、1か月の休暇を頂き、南の沖の永良部島や与論島に一人旅をしてきました。その旅で、ヒッピーと言われていた集団が吐噶喇列島の諏訪之瀬島に集団移住して、自給自足のような生活していて、滞在を希望する者は拒まないということを聞いて、2週間ほど滞在させてもらいました。無料宿泊ですから農作業等を手伝うのですが、もともと体力には自信があり、元気に手伝っていました。

たまたまそこのキッチンを改造し、食卓を作る作業になり、どう作るのか見ていたら、その辺にあった木材の切れ端で箱をつくり、それに砂とセメントを練って擦りつけただけの流しで、食卓もやはりその辺の広めの板を持ってきて、大きな楠の枝の下に、いくつか石を積んで台にし、そこにその板を平らに並べただけの食卓です。25㎜も30mmも関係なく700㎜あろうとなかろうと頓着せず、木洩れ日の射す、気持ちの良い食堂ができていました。

その旅を終えて帰るとき、紅葉のきれいな秋でしたが、足取りはとても重く感じられました。事務所の勤務に戻っても、なぜか体中に蕁麻疹のような症状が現れ、病院通いをしながら働いていました。そしてその年の暮れ、郷里に帰る朝、起きたら、体がとても重く、駅の階段を上るのがやっとで、これではだめだと、その駅から見える病院にいって診てもらいました。「肺炎を起している、即入院しろ」とのことでした。そのまま入院し、その年の正月は病院で過ごしました。

3週間ほど入院したあと、事務所勤務に戻り、半年ほど働きましたが、やはり設計という仕事に感じた疑問は残ったままでした。その時もう少し継続していたら、仕事の面白さが理解でき、違った道があったかもしれません。なぜなら、「弟子は師を選べない」と言うからです。自分が計れる範囲の判断の学びをしている限り、その者に予定調和以上の成長はなく、ブレークスルーは訪れません。成長は、予測できる範囲以上の試練を乗り越えるからできることです。世の中の飛躍した殆どの方が、意図していなかった出会いや試練が、自分を成長させたというようなことを言っています。しかし当時の自分の体は正直で、だますことが出来ませんでした。そのとき、物語3で話した大阪の先輩からコンペを一緒にやらないかと誘いがあり、勤め先の担当の区切りの良いとき、退職させてもらい、自分に合った仕事を求めつつ大阪に行きました。

そんな迷いのあるまま、大阪を経ての土肥移住でしたので、土地の方から見れば、何となく訳ありに思えたとしても不思議ではなかったかもしれません。最近新卒で入社した社員の3割が転職をするという話を聞きます。若い頃、誰もが、自分に何ができるのか、意味あることなのか、こんなことでいいのか、等々、未熟ゆえにあせり、試行錯誤をする時期があります。その過程の一つで、その時の自分の世界だけでは煮詰まってしまい、別の世界を見てみたいという思いが、移住であり、シェア別荘であり、何ができるのか、何がしたいのか、見てみようとする意味もあったのかもしれません。

海から見た土肥町から小土肥につながる海岸線