カテゴリー: 雑記

釜石鵜住居ラクビー復興スタジアムの持つ意味2

釜石のラクビーには7連覇の歴史があり、それが市民の誇りでもあります。スタジアムは市民が育んできた町の象徴としての意味があります。

開通した三陸鉄道の鵜住居駅

もう一つ、最近開通した釜石宮古間の三陸鉄道の鵜住居駅も、乗客が少なくなっている今日意味あるのかという批判は少なくないようですが、単なる鉄道の駅としての意味よりやはり復興のシンボルとしての意味が強いように思われます。

スタジアムが建っている建設地は東日本大震災での釜石の軌跡と言われた、普段から写真の裏山を登って訓練してきた通りやることで全員津波から避難できた中学校の跡地に建っています。このことからも、釜石の象徴となることを運命づけられていたような気がします。このような象徴は作ろうとしても容易につくれるものではなく、それなりの歴史と人々の育む意識が作り出すものだということを教えられました。以前たわごとで言っていた、ネアンデルタール人が絶滅してホモ・サピエンスがまだ生き残っていている大きな理由は、万単位以上の人々を束ねる象徴生み出すことができたかどうかの違いであったとのことですから、復興スタジアムや鵜住居駅はそのような象徴としての意味を持つのだろうと思います。


釜石鵜住居ラグビー復興スタジアムの持つ意味1

木質諸室が鉄骨やぐらに装着される前の木製ルーバーのみのやぐらの写真

写真は釜石鵜住居復興ラクビースタジアムの木造諸室が鉄骨のやぐらの中に建築される前のものです。仮設の観覧席もまだできていません。上の写真の手前のエントランスの公衆トイレ棟は私たちの設計です。このスタジアム建設の前に、これまで三陸沿岸の宮古や山田町、大槌町の応急仮設住宅や集会場、KDDIの災害支援の一環のバス停の待合室やベンチの建築、数件の個人の再建住宅、森林組合事務所等々、復興のお手伝いをさせていただく機会をいただきました。

再建された個人住宅
釜石の町中のバス停の待合所

これらの建築に関わっていた時被災の跡がどんどん変わっていく途中で、ある意味何もないところに何かあるところにしていく作業でした。それがどこに行くのか分らず通っていたような気がします。まさに復興途中でした。


鵜住居復興ラクビースタジアム

ラクビーワールドカップの盛り上がりがすごい。日本代表の3連勝が大きい。釜石鵜住居復興スタジアムでも10月13日にナミビアとカナダ戦が行われます。正直、このスタジアムの建設に関わることになったとき、申し訳ないですがこれほど盛り上がるとは思っていませんでした。木質諸室やトイレ棟の設計に関わり始めたとき、サンウルフズは連戦連敗状態だったから、まして日本戦がない釜石まで客は来てくれのだろうか、と不安に思ったほどでした。過去のブログでも取り上げている鉄骨のやぐら棟だけのころは、このスタジアムにどのような意味が託されていたのか、自分にはまだよく分っていなかったようです。下の写真にある「やませ」という、スタジアムでも時々見られる、この三陸地方の夏特有の冷たい風がもたらす霧が自分の目の前にも立ちこめていたのかもしれません。上の写真のようにスタジアムの鉄骨のやぐら棟に木質諸室がまだ建築されていなかったようなものでした。次回からスタジアムに託されていたものがなんであったのか木質諸室が出来上がっていく過程を紹介しながら、数回に分けて説明しようかと思います。

海と山との間に生じる「やませ」という霧が漂っている鵜住居の海です。


一足早い墓参り

上の写真は実家の菩提寺の山門です。7月は父、母、長兄の命日が重なり、お盆には行けそうにないから5日にまとめて墓参りをしてきました。

本堂は300年以上古いお寺とのことです。

実家のお墓は並んでるお墓の左端の奥にあります。鬱蒼としている杉林に隠れて見えませんが、その林の中に段状にお墓が並んでいて、実は林全体が墓地になっています。

実家のお墓に行く道の左に、法事用の大広間のある会館を含んだ庫裏が、本堂との間にあります。実はこの庫裏を25年ほど前に設計監理をさせて頂きました。(設計事例参照)以前あった庫裏の床下は、山からの伏流水が染み出るところで、予算も厳しく、大きな空間も必要でしたので、鉄筋コンクリート造で設計しました。正面の鏡のように反射しているガラスの向こうは住職さんの部屋で、外から中は見えませんが、中からは外が見えるようにしています。

本堂と会館の間は半階ずれるため、庫裏から本堂には中二階に行くようになっていて、法事広間は二階にあります。本堂と会館との間の落雪の処理が難しく、間に融雪ヒーターを仕込みました。父はこの寺の檀家総代を二十年ほど勤めていたとかで、山門を寄贈したり、以前の庫裏にも先祖が関わっていたと聞き、自分が会館の設計をすることになった時、縁のようなものを感じました。本堂の柱の床下部分は取り換え、ケヤキで接ぎ木して修復もしています。 本堂が300年前ということで、 デザイン的にも耐用年数的にもそれぐらい長期的なスパンで考えて 設計したことは始めてだったことを覚えています。二十数年後に訪れても、きれいにされていて、何となく安堵しました。

子供のころ、寺の後ろの杉林はまだ細くまばらでしたので、段状に並んでいるお墓が木越に見え、墓参りの後、振り返ると、暗くなりかけた夕闇に、各家のお墓のろうそくが点々と横に連なり、それが何段にも山の端まで見え、浴衣姿で墓参りにきた多くの老若男女の様々なシルエットが映え、とても美しかったことを子供心にも覚えています。


清祓いと地鎮祭

先日、清祓いというものに立ち会いました。

本来土地の神様と建物の神様は違うらしく、別々に行うものを建築関係者は安全祈願で地鎮祭として行ってきました。

今回解体する家に愛着があって、清祓いがメインで地鎮祭を兼ねて頂きました。娘さんの愛着が強かったのか、家中にその思いが描かれていました。

言葉や下の絵や

写真がうすくて見にくいところがありますが至るところに描かれていました。

慣れ親しんだ家と別れるのは何とも言い様のない気持ちがあるものです。

私も先々月、二十代に独身仲間と西伊豆の山林の中に、DIY的に建てた別荘(峠の我が家)を、管理しきれないと言うことで手放しました。道路からそのまま屋根に登れて、そこに寝転んでよく満点の星を皆で見たものです。この写真は屋根からの風景です。

こちらはその別荘(峠の我が家)がサンデー毎日に掲載された時の記事です。
子供達がまだ素直について来てくれた頃の仲間達の写真です。


サテライトオフィス秩父より2 ―リモートワーク―

サテライトオフィスでは、完全にフレックスタイム制になるので自分で1日の時間割を決めています。子育て中に私にとっては融通が利いて大変助かります。
ただ、時間割を決めてはいるものの、、どうしても子供たちはイレギュラーなことが多く、また作業時間はコマ切れになるので、キリのいいとこまで終わらせたい!などとやっていて気づくともうご飯を作らなきゃいけない時間になっていてどうしようなど、そんなことはよくあり、なかなか予定通りにはうまくいかないものです。
休みの日でも時間があるとパソコンを広げて仕事をしてしまうので、休んでいる気分にもならず、私にとってのこのスタイルの唯一のデメリットは仕事のオンとオフとの境目がはっきりせず混ざり合った状態になり、なんとなく常に疲労感を感じるといったことでしょうか。。
オンとオフの切り替え方は自分次第なので、もっとうまく時間をコントロール出来たらなと思いながら、日々過ごしております。

秩父の羊山公園にある芝桜の丘です。
見ごろ時期は4月中旬~5月上旬で、池袋から西武池袋線特急に乗り約80分で終点西武秩父駅に着き、そこから徒歩約15分のところにあります。
この時期に早起きできた朝は、子供たちを連れてよく散歩に出掛けます。空気も清々しく気持ち良いです。
早朝はやっていませんが、入園時間になると「秩父路の特産市」が開かれ、出店が出て秩父の特産品の販売や食事が出来るようになり、そこでも楽しめます。
西武秩父駅から芝桜の丘までは登り坂があるので、駅から歩いて見に行かれる方は歩きやすい靴で来ることをオススメします。

 


球体変遷

 

花フェスのメイン会場である松本ドームに寄りました。

球状の傘を被った会場の中で、円形の鏡張りの仕切りの中に直径90㎝程の球状のサボテンがごろごろ展示してありました。

その数日後、高校同期の集まりに、友人が手作りした直径50㎜程の球状の照明器具を二個持ってきました。

とても美しく、最初、刺繍等を施した球状の器でLEDを包んでいると思てしまいした。それにしてはずいぶん精巧に作られた器だと感心してしまいました。

でもその器は何と、球状の貝殻でした。

彼は、東日本大震災後、田野畑村と関わりを持っていて、子供たちや地域の方々に活性化のお手伝いをしているようです。そこで取れる産物を使って得意の理工系のアイデアを組み合わせた商品を子供らと一緒につくっていて、その一つのようです。欲しい方には販売してくれるそうで、ご連絡くれれば手配いたします。どでかい球状ドームから小さい貝殻までの球状シリーズでした。


信州花フェスタ2019

信州大学の山岳部OB山岳学士会が寄贈する部室(山岳会館)の建込みに立ち会った帰り、松本市で開催された信州花フェスタ2019に立ち寄ってきました。解体移築が容易な建築が展示してあるということで、見てきました。

外観を見た限り解体容易には見えませんでした。

内観を見てもどこが容易にした工夫なのか自分にはよく分りませんでした。でも今はやりの屋上緑化がされてありました。

関係者に解体を容易にする工夫をどこにしてあるのか、聞いてみても、正直よく分らず、どうやら想像するに、解体後、移築して使ってくれる先を決めてあるとことで、開催者が展示後の後始末に余計な手間と費用がかからないということのようで、確かにそれはそれで主催者には解体容易な建物となります。

せっかく来たついでに松本ドームの展示を見に行きました。そこから次回のブログに掲載する球体変遷に続くものを見ることになるとは夢にも思いませんでした。


サテライトオフィスより ―育児休暇復帰後―

久々投稿します、藁科です。
去年の4月に育児休暇から復帰して、早1年以上が経ちます。

子供は2歳と4歳の2人で、1人目の育児休暇から復帰してわずか4カ月で2回目の育児休暇に突入しました。
以前のブログでも書きましたが、子供が出来るまでは事務所から通勤時間40分程度のところに夫婦2人で1LDKの賃貸マンションに住んでいましたが、産まれてから引越しを考え、10回以上はマンションの内見に足を運び検討しましたが、最終的に私の地元の秩父に帰り家を建てる決断をしました。
1人目の育児休暇中に自邸の設計及び現場監理、2人目の育児休暇中は姉の家の間取り変更も伴う改修工事の設計及び現場監理をしていて、なんだか休暇中も仕事をしているような日々を送っていました。

復帰後は片道通勤時間2時間半になりましたが、基本的には秩父の自宅で作図作業をし、打合せなど必要に応じて事務所に出勤するという働き方のスタイルになりました。
事務所との普段の確認事項等はメールや電話で問題なく行え、確認申請はネットでの申請が可能で、大体のことは秩父にいても仕事が出来ています。

仕事をしているところから見える風景です。新緑の時期も過ぎて緑が深くなってきました。秩父のシンボルである武甲山が少し見えます。

子育てをしている私にとってはこのスタイルはとてもありがたくメリットだらけですが、季節の移ろいを目の当たりにしながら働けるということも大きなメリットの1つだと感じます。目も良くなった(気がします。)

 


暮れの窓拭きしながらホモ・サピエンスの明日を考えた

 住宅設計で私は、陽射しや視界を気にし、開口を大きく取る傾向があります。

 自宅もその類を免れず、開口面積が大きく、明るく陽射しも入り、悪くはないのですが、暮れのガラス掃除は当然自分の担当になり、午前中いっぱいはかかってしまいます。多分、私どもの設計のせいで、同じような被害を被らせている方は少なくないかと思われます。ごめんなさい。

 昨年の暮れも陽射しの暖かい日に、腹をくくってバケツと雑巾等を持って耳にスマホからのイヤホーンをつけて、外部から始めました。窓拭きは綺麗にしようと思うと、限りなく気になり、時間もきりなくかかります。はしょろうと思えば、作業後の批難を覚悟すればそれなりに、はしょることもできます。

 背に陽射しを受け、どうせ早く終わっても他の作業を手伝わされるのがオチだからと、音楽を聴きながらそれほど苦痛もなく、ルーティンワークとして無心になって始めました。よく聞き慣れている音楽だと聞き流しながら、手とは別に頭は自由に思考ができます。馴染みの少ない曲やしゃべりのあるラジオ等では、ついそっちに聞き耳を立て、手は動いていても思考はそちら引きずられ、作業も効率良くは進みません。 

 世代差はあるでしょうが、作業や勉強をしながらでも、何かを聴き、あるいはスマホを見ながら、場合によってはテレビもちらちら見ながら作業ができる人が多くなっているようです。そうしていないと不安になるという人もいるようです。私のように手だけは動かせても、思考は一つにしか集中できない人種には、マルチタスクの可能な、新たな人種が登場してきたかと思ってしまいます。

 またその反面、SNSのようなツールを活用したコミュニケーションは長けているのに、面と向かっての会話は苦手になっている人も多く見られます。さらにそのような会話で自分の意向を上手く伝えられない人や、相手の言動やしぐさ等から、相手の意向や心情を的確に推し量るコミュニケーションが上手くできないで悩む人も増えているようです。これは伝達手段が直接表情から読み取ることから映像や音声データから読む方法に移行しつつあるということでしょうか。

 ネアンデルタール人はホモ・サピエンスよりも個体的身体能力は優れていて、脳も大きかったのに絶滅し、数多くいた人猿から進化したホモ属に属する動物の中で、ホモ・サピエンスだけが生き残ったそうです。その理由は集団の力を発揮する能力が優れていたからだと「サピエンス全史」(ユヴァル・ノア・ハラリ著、河出書房)では説明しています。

 ある意味個体としての身体能力が弱かったことが集団化能力の育成を促したとも理解できます。ただし個人的親近感や信頼感から集団としての力を維持、発揮できるのは、せいぜい150人までだそうで、それ以上の千、万単位の規模では個人的信頼関係だけでは不可能とのことです。それ以上の千、万を超える集団を形成し、維持させる能力は個々人が、信じられ、自分を捧げまたは托す意味や意義を見出すことのできる集団への想像力が必要だったとのことです。巫女のような存在への信頼、軍事的力を伴った政治指導者の幻想国家への委託、宗教への信心等、個人的信頼感を超えて個々人が托することが出来るものとして、想像を共有できる能力が備わっていたから、と読みました。

 例えば十字軍に志願する若い人には自分の命を捧げても良いと思えるほどに神の存在を想像でき、世界大戦では徴兵されて戦争に赴く人は、身を託するだけの意味あるもの、あるいは託さざるを得ないものとして、実体のない国家も意味あるものとして想像(幻想)することができたから、ということです。

 近代社会ではかつてほど神や国家に対して身を托するほどの幻想を抱くことは難しくなり、個々の生命は地球より重い、という個々人を尊重する民主主義(市場主義)=人間至上主義が共通価値観として共有されてきたと言います。

 その民主主義も自国ファーストや民族主義の高まりで大多数を統合する決定機能として怪しくなってきていて、市場主義も想像以上の格差社会を生み出し、行き詰まりを見せてきているのも事実です。

 人間至上主義の根底をなす自己も、例えば、ダイエットをして身をスリムにしようとするストーリーを描いている自分と、今日は寒くてジムに行きたくないという自分の、どちらが本当の自分なのか、わかっているようでよくわからない、不安定なところがあります。むしろ個人データとしてGAFA(フェイスブック、アマゾン、グーグル、アップル)のようなネットのプラットホームに収集されてある記録(例えば現在では買い物情報や使用薬剤または健康状態など)等々のデータがさらに多く整備される社会になれば、その方が信頼に足る本当の自分で、そのデータからAIが考えた指示に従って行動するする、データ教になりつつあるのでは、とのことです。(「ホモ・デウス」同一著者)

 データ教の社会になれば確かに顔色を伺いながら意向を読み取る伝達能力より、データのやり取りをどれだけ多くできるかの能力の方が重要になってくるのかもしれません。確かに狩猟採集社会での、獣の匂いを嗅ぎつけ、雲の様子から明日の天気を予測するなどの、個人的身体能力は、現代人の方が劣ってきていて、剣での殺傷能力が不要になってきたように、必要な能力は変遷してきたことは歴史が証明しています。

 マルチタスクの可能な人が多くなったということは、ガラス拭きですら、ラジオ等に引きずられて思考も自由に集中できず、作業に多少の影響が出る自分のようなホモ・サピエンスは絶滅し、マルチタスクが可能な若い人たちのような人種に移行しつつあるということなのかもしれません。

 しかも空気を読むことが苦手とされる若い人のコミュニケーション不足は、時には発達障害ではないかと、問題にされてきているのも、もしかしたら、対面での伝達方式からデータのやり取りの方が重要とされる時代へのホモ・サピエンスの移行期の現象かもしれません。だから相互理解や論理的な議論で物事を止揚させながら決めていくということが苦手な人が多くなり、様々な世界会議でも国会でも地球温暖化対策も原発から自然エネルギーへの変更も決められないでいるのかもしれません。

 人間に完璧な人はいないように、多かれ少なかれ、誰でも多少の発達障害を持ち合わせている部分があり、新しい時代の人種は少なくとも古い時代の能力には欠けているのは当然と考えると、あながち嘆くに当たらず、どちらが明日の時代に即応するのか誰にもわからないのかもしれません。

 設計作業でもこれまでイヤホーンを着けて作業をしている者もいました。見た所、ルーティンワークの場合はいざ知らず、色々なことに配慮が必要な設計作業や作図作業ではスピードが遅く、配慮に気づくことも少ないように見受けられました。でも今日すでに作図では、メーカー等の商品データからかなりの部分は検索で取り出す時代になっていて、その能力は必須になっています。

 もしかしたら設計での様々な配慮も、生産性重視が問われる社会にあっては、余計な能力となり、今は未だ無い様々な配慮のデータも多く整備され、問い合わせれば検索で答えてくれる時代になれば、設計者も要求されたデータを数多く、素早く取り出し組み合わせる能力の備わったホモ・サピエンスが求められるのでしょう。しかもその能力はなまじ自分で総合的に考えようとする者より、あまり考えず指示通り動く者の方が生産性を高く評価され、ある意味ロボットのようにAIのデータ通りに都合よく動く者が明日の時代にかなった人種になっていくのかもしれません。しかもそのうちそれらの作業はAIが全て行うようになり、その人種は不要者階級のホモ・サピエンスとなり、AIを駆使できる神のような、ごく一部の極端な富裕階級のホモ・サピエンスとに分離されていくのではと、「ホモ・デウス」から読み取れます。

 しかしマルチタスクができず絶滅危惧種の自分としては、将来AIの学習に必要とされる設計上の配慮を、経験値データとして日々の業務の中で数多く生産・蓄積し、データを提供することでしか、わずかの時間だけかもしれませんが、ホモ・サピエンスとして生き延びる道は無さそうです。

 あらかた窓ガラスも拭き終わり、まあまあ綺麗になったようですので、片付けて中に入れてもらおうかと思います。