シェア別荘・峠の我が家物語4 島流し的移住

ある日公園で 見たことのない大きな鳥がいた
見たことのない 輝く鳥がいた 
屋根のない車にのって 俺は追いかけた
空をかける その鳥を追い 街をすぎ去った 
屋根のない車にのって 俺は追いかけた 
ある日野原に ・・・・・・・・・・・

「屋根のない車」の歌詞の出だしです。若い時のあこがれと試行錯誤の心象を歌にしています。自立とは職を得て自活することですが、それは親の干渉からの解放と自分のあこがれを追いかけようとする、人間として自然な願望があってのことです。しかし今の時代の「自立」と、自分たちが共同別荘を建てようとした時代の「自立」とでは、形は同じ職を得ることではあっても、中身は変質している気がします。

当時の日本は第一次産業から第二次、第三次産業へと人口が移行途中で、就職も容易な時期でした。自然を相手に作業する農林魚業や家内制手工業など家業として働いていて、自分で考え工夫し、最後までやり遂げざるを得ない自営業の者が、あるいはそんな仕事をする親の背中を見て育った者が、家とは別の場所の二次、三次産業組織の職を得る「自立」でした。それは、身に纏わることは自分で何とかするのが当然という意識、または事態は自分で何とか切り開くしかない、という認識が下地にある者が他の場所に勤務する「自立」でした。ある意味、「自立」の下地は育まれていて、糊口を凌ぐ糧を得る技量と社会的マナーを身に着け、自己を確立していくための職を得る「自立」でした。

自然の中に職場と遊び場もあった田舎の水田のある風景

それが今日では、その組織が大きく融通が利かないものとなり、構成員のためのものから、自己増殖していく組織にかわり、個人の関与で何とかなるとは思えないものになりました。運営のトップは確かに自分で考えようとする者を求めていても、構成員たちにとっては、むしろ自分で何とかしようと考える者は、その集団の慣習を乱しかねず、厄介になる場合が多く、要請に従順に従う者を求めるようになってきています。

そんな組織に職を得ようとする者も、大半が会社人間の親の元で、かつてのように家業を見て育っているわけではなく、親の生業が見えない環境で過ごしてきました。家事も殆どがお金で代用できる生活で、役割意識も希薄になり、各自の生活時間帯も別々が多く、考えることも殆どが経済的選択行為になっています。自然との関りも薄く、自分の考えと努力で何とかやり遂げた、という体験も少なく育ってきてます。それでも、まだある少ない自営事業者の家で育った者やスポーツ等の課外活動で、自分で何とかするしかないという意識を育んできた者も少なくありません。

しかし多くは自立の本質である、自分に関わる問題があれば、自分で考えるという認識も意識も十分養われにくい環境で育っています。そのためマニュアルに沿って要領よく選択だけで済ましてきた者が、職を得る「自立」が多くなってきています。当然、自分から提案しようとすることは少なく、組織のマニュアルに頼り、不測の事態には誰かの指示待つ「自立」が多くなるのも、無理からぬ気がします。でもこれは、今後人類があらゆることをAIに判断を委ねる時代になるための下地作りなのかもしれず、どちらがいいのか分かりません。

ともあれ、選択だけで過ごしてきたせいか、住まいも、創るものではなく、買うもの、選択するもの、と捉える方が多くなり、都市圏内では、創る戸建ての注文住宅より、選択だけで得られるマンション住まいを求める方が殆どになってきました。

戸建て住宅街に突然仁王立ちして現れたマンション

若い方にも住まいは創る方が、家庭を確かなものに築き上げるいい機会になり、買うだけよりずっと楽しく面白い、ということを伝えたくて、この設計という仕事をしていますが、選択だけで済まそうする方は、選べば工場生産品のようにでき上がるという認識で建てようとし、思うようにならない、という話はよく聞きます。

自分が関与して住まいを創るということは、自然相手と同じで、状況相手に関係者が住まいを一緒に育むことで、楽しくもありますが、試行錯誤もあり、うまくいかないことや多少の不具合があっても、ただ対象に不満を言うだけでなく、それぞれが乗り越える道を共に探そうとする共有意識さえ持てれば、いい家ができ、面白いものになります。

「自立」していく上で、ものごとは、いやたぶん人生は「可塑性」がある、という認識があるかないかで、その先の生き方を大きく変える気がします。WBCの優勝が与えた感動の大きな要因の一つに、メンバー各自が自分に限界を設けず、何とかできるはずという想いの強さが勝利を引き寄せた例として、見せてくれたことにある気がします。

房総の海

大阪の先輩の家に居候しながらの手伝いを終え、その後しばらくは先輩の所有する千里ニュウタウンのマンションを、ホテルマンをしている方と共同で借りて(シェア)、半年ほど住んでいました。その間、京都の都市計画コンサルタントの手伝いで、京都の交通事情調査や和歌山県の中辺路町の過疎化対策などの調査を手伝っていました。いつまでも定職に就かず、そんな状態でいるわけにも行かず、新たな職探しをするにも、移住先、つまり住む場所を決めてから探そうと思っていました。
住むなら海辺に住んでみたいと思っていた自分としては、まず実地見聞が先と、茨城県の鹿島市の海岸を起点に、海沿いを友達の、“屋根のない車”にもなるジープを借りて、一人南下しながら海岸縁を、九十九里、大東岬、勝浦、千倉、館山、東京湾岸、川崎、三浦海岸、鎌倉、茅ケ崎、大磯、熱海、伊東、下田、松崎、土肥、小土肥という順番で、今でいうオートキャンプをしながら一人見て廻りました。一週間ほど続けているうちに、小土肥という何の変哲もない小さい浜の近くの、これまた小さな神社の松の樹の下で昼寝をしていて、目が覚めたら、浜から吹いてくる風が気持ちよく、ここに住んでもいいかなと思われました。

何の変哲もない小さな小土肥の浜辺

そしてこの辺りに職があるか聞いてみようと思い、ぶらついていると、小ぎれいなペンションがありました。そこの方に聞いたら、土肥町の建設会社が現場監督を探しているそうよ、と言うのでそこを訪ねて行ったら、すぐにでもきてくれというので、住まいを決めたら働きますと答えました。すると、3階建て6世帯用の社宅の1戸が空いているから、そこに住むといい、と言われ、わかりました、それでは来週から働きます、と答え、移住の難関と言われている、住まいと職がいっぺんに決まりました。

小土肥の海近くにあった小さな八幡神社

荷物を運ぶ車はあるかと問われ、ないというと、それじゃ現場用の軽トラックを貸すからそれを使っていいと言ってくれました。それで一旦、ジープで東京に戻り、友達に返して、今度は電車とバスで、土肥まで来て、軽トラックを借りてアパートまで戻り、足手まといにもなっていた、生活用具一式を軽トラックに積み込み、大家さんに礼を言ってアパートを引き払いました。

それまで、ゆっくり走れるジープでのオートキャンプ旅行以外、普段、殆ど車を運転することのなかったペーパードライバーの自分が、軽トラックに乗り、夕方の6時ごろ川崎の新丸子から一路西伊豆を目指しました。高速道路は怖い思いはあったものの、慎重に走って無事沼津で降り、三島、修善寺までは周囲の明かりもあり、運転未熟の怖さだけでした。
しかし西伊豆に向けて走っていくうちに、舟原峠を過ぎ、だんだん人家がまばらになり、辺りも暗く、寂しく不安になってきました。そのうち殆ど山の中の道となり、鬱蒼とした木々の中を軽トラックのヘッドライトだけを頼りに進んでいきました。対向車もなく、そのうち舗装もなくなり、凸凹道で、正に、「天城越え」ならぬ「舩原峠越え」です。ああ、これが都落ちなのだと感慨にふけり、島流しの頼朝もかくありなん、と歴史上の人物に共感を覚えながら、島流し的移住の初日でした。


峠の我が家記事

1.峠の我が家物語 はじめに
2.峠の我が家物語 暮らしてみたい土地
3.峠の我が家物語 別荘づくりのいい加減な動機
4.峠の我が家物語 島流し的移住