
今回の敷地は狭い一角に建てざるを得なく、残しておきたい桜の木の大きな枝に建物が当たるので、やむを得ず、その枝を、時期を見て庭師さんに切っていただきました。桜切るバカと言われるだけに、春に今後も素晴らしい花を咲かせるのか心配です。(藤原)
今回の敷地は狭い一角に建てざるを得なく、残しておきたい桜の木の大きな枝に建物が当たるので、やむを得ず、その枝を、時期を見て庭師さんに切っていただきました。桜切るバカと言われるだけに、春に今後も素晴らしい花を咲かせるのか心配です。(藤原)
上の写真は友人宅の隣の敷地の山が崩れて、仮処置してもらったものです。どこの都道府県でも建築基準法とは別に崖地条例が制定されています。崖の落差が2m超えている場合、その落差に合わせて、ある範囲内に建てる木造建築では、敷地外でも、敷地の上方でも下方でも、必要処置が条例で決められています。
※がけ地近くの敷地に対する制限等は、その土地がある都道府県の「がけ条例」によります。
(各自治体のホームページを参照してください)
上の写真のように、敷地の上に擁壁がある場合、その擁壁が安全であることを証明する必要があります。下の写真のように擁壁がない場合、都道府県で多少異なりますが、崖上の高い所から、高さの2倍ほどの距離を設けた範囲外に建物を計画にするか、または崩れて当たる建築部分を鉄筋コンクリート造にするか、安全性を証明できる擁壁を設けるか、崩落への何らかの対策をするように決められています。
上の写真のように、崖の上の敷地の場合は崖下から落差の1.5倍の距離内に建てる場合、崖下から30度の仰角の範囲内の地中まで、基礎または杭を設けるなど、土が崩れても建てた建物が影響されない対策をとる必要があります。
上の写真は、開発行為で擁壁を設置して売り出した分譲地です。開発行為の検査で安全を確認できた場合、その許可書を添付して建築確認を申請するるので、問題になりません。(設計事例・聖蹟桜ヶ丘の家)擁壁の下に建てた住宅が、上の道路部分から見ると下の写真のように平屋建てに見えますが・・・・
崖下の道路からはこのように二階建てです。
だいぶ前にできた擁壁の場合、図面と構造計算書、それと完成検査済み書があれば安全性の証明になりますが、それのない、あるいは下の大谷石のような擁壁の場合、証明できないことが多く、計画と予算の修正を迫られることになります。
今、この擁壁の上の敷地に、擁壁に荷重を掛けず、かつ擁壁の上に1.5mほど迫出した木造の住宅を工事中です。
下の写真は敷地内にあった擁壁の手前に地下勝手口を設けて、高い敷地の基礎底版を跳ね出し、擁壁を跨いで地下室の天井スラブとした住宅です。一階のコーナー窓の下の跳ね出しスラブの下の階段とその向こうのコンクリート壁は元々あった擁壁です。二階建て部分の向こうの隠れて見えない所にも同じ元々の擁壁があります。擁壁をやり替えると開発行為にかかって許可に時間と費用を要するので、それを建築に回した事例です。(設計事例・永山の家) (藤原)
散歩で少し遠くまで歩いていたら、郊外のさほど建て込んでいない住宅地に、住居にしては5層建てと高く、事務所にしては遠くからのせいか塔状に見え、各階の面積が狭いのではと見え、何かよくわからない建物があり、つい外観写真を撮ってしまいました。近くまで行き、表札を見たら住宅でした。一種の塔状住宅のようです。多分住居兼事務所ではないかと思われます。エレベーターは付いているだろうか、部屋割りをどう構成しているのか、と興味をそそる、個性的な建物でした。(藤原)
家を建てた当初は、子供部屋に間仕切り壁を作らないで、一つの大きな部屋にしておいて、子供の成長に合わせて間仕切り壁を作りましょうとすることが結設計では多いです。
その計画を実行する時が来ました。
10年前に設計した住宅の建主さんから、子供室を計画通り2つに仕切りたいとのご相談があり、間仕切りを作ることになりました。
そのほか2階デッキを広げたり、メンテナンスとして外壁と軒天の汚れの補修等も行いました。
この子供部屋の間仕切りは、ここ最近この都築の家のほかに2件ご要望が続きました。3件とも竣工後約10年です。10年経つと家族にも変化があるということですね。
元々天井が高い部分があったので、その天井高を有効活用して造付のロフトベッドにしました。ロフトベッドは、子供のころにだれでも一度は憧れるのではないでしょうか。
ベッドは、畳敷にしてあります。畳は何かすがすがしくてよいです。
意外と畳ベッドをご要望されることが多いですね。
2つの既存の可動式クローゼットを固定して間仕切り壁の一部にしました。お互いの部屋から使えるようにして、その隙間を収納棚に。
こうやって出来上がりを見ると、元々こういう形だったような気がしてくるほど、しっくりなじんでますね。
ピアノの裏が子供室です。左側の元々収納だったところを2つ目の子供部屋の入口に作り替えました。ピアノの上の欄間部分は、元は貫通していましたが、壁を作りプライバシーを確保しました。
壁は、左官壁です。既存部分と新しい壁との色が合わないことを心配していましたが、違和感がない仕上がりです。職人さんに感謝ですね。
デッキは、6帖の広さだったものを7.5帖に広げました。
腰壁は、既存の小幅板がしっかりしていたので、そのまま使いました。デッキを広げた分の少しだけ小幅板を追加しました。
床は、グレーチングの上にデッキ材を張りました。金属のグレーチングよりも柔らかい印象になりました。
デッキ材は、杉で今まであまりデッキ材として使っていなかったのですが、耐久性があるものが出てきました。この杉材は、燻製することで耐久性があります。
正面の外壁は、白い漆喰壁なのですが、一部汚れがあったので汚れを除去しました。軒天の小幅板も塗装してきれいになりました。
やはり、きれいになるとうれしいですね。建主様にも満足していただけました。
竣工当時の写真は、設計事例「都築の家」でご覧ください。(加藤)
「建築知識2020年2月号」(エクスナレッジ出版)に、[職人不足に対応する合理的な新工法]としてFSU工法を取り上げていただきました。(P.087)
木造の在来工法に合理的な工法としてFSU工法を紹介する内容となっています。
書店で見かけたら是非手にとってご覧ください 。(加藤)
今工事監理で名古屋通いをしています。その現場近くにある名門のスケートリンクです。正面に掲げている写真やコーチらしき後姿をみればどこかお分かりですよね。入場するだけで300円徴収されました。近くには大須観音があります。
直ぐ上の写真はまっ平に見えますが、スケートリンクではありません。手摺壁とデッキを敷設する前の防水工事終了後の現場写真です。見えている大開口には敷地境界から5メートル以内ですので、ワイヤー入りガラスににしないといけないところですが、デッキスペースの右に見える手すりを壁を軒迄立ち上げ、防火壁にして、開口までの類焼距離を5メートル以上確保することで、ワイヤー入りガラスを免れるようにしました。
釜石のラクビーには7連覇の歴史があり、それが市民の誇りでもあります。スタジアムは市民が育んできた町の象徴としての意味があります。
もう一つ、最近開通した釜石宮古間の三陸鉄道の鵜住居駅も、乗客が少なくなっている今日意味あるのかという批判は少なくないようですが、単なる鉄道の駅としての意味よりやはり復興のシンボルとしての意味が強いように思われます。
スタジアムが建っている建設地は東日本大震災での釜石の軌跡と言われた、普段から写真の裏山を登って訓練してきた通りやることで全員津波から避難できた中学校の跡地に建っています。このことからも、釜石の象徴となることを運命づけられていたような気がします。このような象徴は作ろうとしても容易につくれるものではなく、それなりの歴史と人々の育む意識が作り出すものだということを教えられました。以前たわごとで言っていた、ネアンデルタール人が絶滅してホモ・サピエンスがまだ生き残っていている大きな理由は、万単位以上の人々を束ねる象徴生み出すことができたかどうかの違いであったとのことですから、復興スタジアムや鵜住居駅はそのような象徴としての意味を持つのだろうと思います。
写真は釜石鵜住居復興ラクビースタジアムの木造諸室が鉄骨のやぐらの中に建築される前のものです。仮設の観覧席もまだできていません。上の写真の手前のエントランスの公衆トイレ棟は私たちの設計です。このスタジアム建設の前に、これまで三陸沿岸の宮古や山田町、大槌町の応急仮設住宅や集会場、KDDIの災害支援の一環のバス停の待合室やベンチの建築、数件の個人の再建住宅、森林組合事務所等々、復興のお手伝いをさせていただく機会をいただきました。
これらの建築に関わっていた時被災の跡がどんどん変わっていく途中で、ある意味何もないところに何かあるところにしていく作業でした。それがどこに行くのか分らず通っていたような気がします。まさに復興途中でした。